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第4回|FIELD REPORT
茨城・日立エリア:日立の過去・現在・未来を探る旅 (1)
日立創業の精神と社会イノベーションの源流を訪ねて

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第4回|松井 康真がゆく原子力最前線 〜現場×対話で読み解くエネルギーの行方〜

日立創業の地である茨城県日立市には、日立事業所、大みか事業所、研究開発グループ茨城サイトをはじめ、日立グループの主要な事業所や研究開発の拠点が10か所以上存在します。今回は松井 康真氏がそれらの中でも特に原子力やエネルギー分野に関係する拠点などを巡り、日立のルーツ、原子力分野の現在の事業や研究開発の取り組み、未来へつながる人財育成や地域との共生について取材しました。その模様を4回にわたってお届けします。

1回目は日立製作所が産声を上げた日立鉱山(現JX金属)の歴史が詰まった「日鉱記念館」と、日立グループの原点と歩みを辿る「日立オリジンパーク」を訪問。明治末から大正にかけて、鉱害対策に正面から挑み、企業と地域の共生をめざした久原 房之助氏から、国産独自技術を追い求め、日本の製造業の発展を牽引した創業者・小平 浪平へと受け継がれた志が、現代の日立が掲げる「社会イノベーション事業」やエネルギー技術への姿勢へとつながっていることを、松井氏が読み解いていきます。

「日鉱記念館」で辿る日立鉱山の歴史、日立グループ発展の原点

日立製作所の創業の地、茨城県日立市。市の中心部から北西方向へ車を走らせると、ほどなく街並みが途切れ、山間部へと入る。木々の緑の中、宮田川に沿って続く道を上っていくこと約20分、谷間(たにあい)の一角に日立鉱山の歴史を今に伝える日鉱記念館が姿を現す。

日鉱記念館は、創業地である日立鉱山の跡地に建てられたJX金属の企業博物館。1905年に実業家の久原 房之助(くはら ふさのすけ)氏が開業した日立鉱山は、近代技術の導入により短期間のうちに足尾・別子・小坂と並ぶ日本四大銅山の一つに数えられるまでに発展し、1981年の閉山まで76年間にわたり、銅の生産を通じて日本の工業の発展に寄与してきた。

閉山後、創業80周年を記念して1986年に開館した日鉱記念館は、鉱山の遺構を生かしながら、さまざまな展示を通じて日立鉱山とJX金属グループの足跡や久原氏の創業の精神を今に伝えている。

木立を背景に佇むコンクリート造の本館。直線的なラインが重厚かつ洗練された印象だ

晩秋の澄み渡った青空の下、現地に到着した松井氏は、まず本館へと向かう。「ようこそ日鉱記念館へ」。エントランスを入ると、篠原 順一館長が笑顔で出迎えてくださった。篠原館長の案内で、創業100周年を記念して制作された日立鉱山の紹介映像を視聴したのち、本館、鉱山資料館、旧久原本部、遺構の竪坑櫓(たてこうやぐら)などを見学した。鉱山資料館は、1944年に建設された木造のコンプレッサー室がそのまま活用されている。また、旧久原本部は開業当時に久原氏が居住した場で、現在は茨城県の文化財に指定されている。

第一竪坑櫓をバックに篠原館長と。竪坑は、従業員や鉱石を運搬するために地面と垂直に掘られた坑道。ケージと呼ばれた金属製のカゴを、巻揚機を使ってワイヤーで昇降させ、エレベーターのように人や物を運搬した。第一竪坑は、日立鉱山開山直後の1906年2月に開削を開始し、1981年の閉山まで75年間にわたって鉱山の大動脈として活躍した

日立鉱山で産声を上げた日立製作所 ― 創業者・小平 浪平の挑戦

日立鉱山が開かれた神峰(かみね)山は、阿武隈山地の南端部に位置する低山。古くは金が、江戸時代以降は銅が採掘され赤沢銅山と呼ばれていたが、鉱害問題などから経営が停滞していた。この鉱山の可能性を見抜いて1905年に買い取り、村の名前にちなんで「日立鉱山」と名付けたのが、当時36歳の青年実業家、久原 房之助氏だった。久原氏は秋田県小坂町の小坂鉱山を再開発し経営を立て直した経験を生かし、日立鉱山を近代化により生まれ変わらせた。

久原 房之助氏の胸像。
「30代の若さで鉱山を買い取って再建してしまうという実行力や気概は、明治という時代背景もあったとはいえ、やはりすごい。敬服します」(松井氏)

鉱山の近代化には組織の整備とともに機械化を図る必要があり、そのためにはエネルギー源として電力が不可欠であると考えた久原氏は、1906年、小坂鉱山時代に共に働いていた小平 浪平を招聘(へい)し、発電所の建設を任せた。電力を確保すると、久原氏はそれまでの手掘りを削岩機での採鉱に変え、ポンプを用いた地下水の汲み上げにより地下深くまでの採鉱を可能にするなど、現場改革を推し進めた。その結果、鉱石の採掘量は急速に増加、日立鉱山は大きく発展していく。

一方、工作課長に任命された小平は、銅の製錬所や鉱石の運搬設備、電気鉄道などの建設を指揮する傍ら、鉱山で使用していた外国製の電気機械の修理も担った。小さな丸太小屋で修理に明け暮れる中、次第に知識や技術を磨いていった小平は、1910年、後輩のエンジニアたちと共に「5馬力誘導電動機(5馬力モーター)」を完成させる。同年、純国産技術による電気製品製作を行う工場を鉱山の一角に建設し、日立製作所は産声を上げた。小平36歳の時だった。

松井氏が注目した展示の一つ「日立鉱山の鉱床と坑道の透視模型」。篠原館長の説明によると、坑道の最深部は記念館の現在地(海抜350メートル)から950メートル地下にまで達したという。坑道の総延長は約700キロメートル。従業員の入出坑、鉱石・資材の運搬に用いるエレベーターが設置されていた縦坑は深さ600メートルあった。ちなみにスカイツリーの高さは634メートル。「地上からまったく見ることができない、まさに宇宙空間に等しい場所に、100年以上前に総延長700キロメートルも掘るというのは現代でも私には想像できません。限られた環境の中でも切削装置や測量技術が当時の世界最高レベルに達していた証しでもあります。それを一目で表せている立体透視模型を見て、良い意味で呆然としました」(松井氏)

第一竪坑のケージを昇降させていた巻揚機。巨大なモーターでドラムを回転させワイヤーを巻き上げ・下げしていた。当時のまま保存、展示されている

鉱山資料館には、実際に使用されていた削岩機がずらりと並べられている

日立鉱山が向き合った鉱害問題と地域共生の取り組み

鉱山の操業が始まって2年ほど経った頃、周辺地域の農作物に銅の製錬所の煙に含まれる亜硫酸ガスの影響とみられる被害が現れ始める。この煙害の対策を担った当時の庶務課長、のちに所長となる角 弥太郎(かど やたろう)氏は、煙害による損害を認めた場合には、道義的責任において進んで補償することを基本方針とした。

住民への補償は誠意を持って進められていたものの、鉱山の事業拡大に伴って煙が増えると、その被害は激化。農作物だけでなく山林へと広がり、鉱山に対する住民の不満も高まっていく。鉱山側も煙害対策に力を注ぎ、さまざまな試行錯誤を重ねるがなかなか効果が上がらない。そうした中、上空のできるだけ高い位置で煙を拡散させれば被害は軽減できるのではないかと久原氏が発案、巨費を投じて当時世界一の高さ155.7メートルの煙突を建設する。当時としては先進的な鉄筋コンクリート造の大煙突は、延べ3万6,000人以上を投入し、わずか9カ月という短期間で完成。1915年から使用が始まると、煙害は大幅に軽減された。

また、半径10キロメートルの範囲に気象観測所を設置して観測ネットワークを構築。煙が地表に降りてくるような気象条件の際には、製錬所の操業を制限して煙の量を抑えるなどの対策も講じた。

日立鉱山が生んだ地域のシンボル、桜と大煙突

日立鉱山はそれらの対策に加え、農事試験場を設立し煙に強い農作物や樹木の研究も行った。その結果、煙に強い植物の一つがオオシマザクラだったことから、伊豆大島から取り寄せたオオシマザクラの苗木を育て始める。
種から苗を育て、少しずつ苗を増やしては山に植林するという地道な活動を続け、最終的には500万本を超える苗木を植林した。農家には煙の害に強い作物の種や肥料を配布、近隣の町村には黒松、杉、オオシマザクラなどの苗木、約513万4千本を無料で配布した。
20年近く続けたこの活動で植林および配布した苗の総本数は1,000万本以上にのぼり、山は緑を取り戻した。さらに、植林の担当者はオオシマザクラに接ぎ木したソメイヨシノの苗木も数多く育て、日立の街中に約2,000本を植えていった。先人たちのこうした地道な活動の結果、日立市は桜の名所として知られるようになっている。

大煙突は1981年に日立鉱山が閉山したあとも立ち続けたものの、1993年に老朽化により途中から倒壊。高さが3分の1となってしまったが、今でも郷土のシンボルとなっている。煙害をめぐる日立鉱山と地域住民との協働の物語は、昭和の文豪、新田 次郎氏の小説『ある町の高い煙突』に描かれ、2019年には映画化もされた。

高さが3分の1になった現在の大煙突。「この大煙突には、企業と地域住民との共存共栄の思いが刻み込まれているのですね。経年劣化で倒壊したとき、もし谷側に倒れたら被害が出ていたけれど、うまく山側に倒れて被害がなかったそうです。篠原館長によると、万一のときには山側に倒れるような構造にしてあったのではないか、という説もあるとか。当時の技術者魂を想像すると、ありえない話ではないと思ってしまいますね」(松井氏)

ESGにつながる日立鉱山の企業姿勢 ― 社会課題と地域への向き合い

見学を終えた松井氏は、「日立鉱山の歴史については正直、初めて知ったことも多く、心を動かされました」と感慨深げに話す。

「久原さんが煙害の克服を経営課題の真ん中に据えて社運をかけて取り組み、1,000万本(!)以上もの苗を植えたり配布したりしたというエピソードが印象に残っています。日立鉱山以前に起きた足尾銅山の鉱毒事件や、高度成長期のさまざまな公害問題はよく知られていますが、あの当時すでに公害にきちんと向き合っていたという高い見識こそ、もっと広く世の中に知られるべきと思います。春になぜあのように見事に多くの桜が日立に咲くのかもわかりました。映画化された『ある町の高い煙突』のDVDが売店で販売されていたので、思わず購入してしまいました」

久原氏は、鉱山事業を成功させるには従業員が安心して働ける環境が必要だと考え、社宅だけでなく学校、病院、食料や日用品を安価に販売する供給所、娯楽施設、さらに鉱山専用の電気鉄道を整備し無料で利用できるようにするなど、福利厚生にも力を注いだ。

「鉱山自体が、一つのまちになっていたのですね。さらに、事業と桜の植樹などを通じてこの地域全体のまちづくりにも貢献してきた。そうした日立鉱山の企業姿勢は、現在のESG(Environment, Social, Governance)経営に通じる先見性があります。そして、その精神を小平 浪平さんが受け継いでいったわけですね」

創業精神を未来へ伝える「日立オリジンパーク」

日鉱記念館をあとにした松井氏は、JR常磐線の大甕駅にほど近い「日立オリジンパーク」へ。2021年11月にオープンした日立オリジンパークは、日立グループの福利厚生施設「大みかクラブ」と「大みかゴルフクラブ」、その敷地内に新たに建設された「小平記念館」と「創業小屋」から成る。松井氏は大みかゴルフクラブのコースを一望したのち、まずは小平記念館を見学。

大みかゴルフクラブの始まりは、1936年に日立社員の福利厚生と外国賓客の接待を目的としてつくられた「日立ゴルフ倶楽部」。その後、農地化や規模縮小などの紆余曲折を経ながら現在まで存続してきた。日立グループの福利厚生施設だが一般利用ができ、クラブハウス2階のレストランとともに地域の方々に親しまれている

小平記念館へ。「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という企業理念を115年にわたって継承してきた日立グループの歩みと
その源泉である創業者・小平 浪平に思いを馳せる

小平記念館では、小平 浪平が日立製作所を創業するまでの歩み、歴代の製品、パネル展示などにより、日立の挑戦と技術開発の歩みを世界の産業史と比較しながら体感できる。最初のゾーンでは小平のルーツに関する資料が展示され、サラウンドスクリーンの映像で学生時代から創業までの道のりを追う。

映像を見た松井氏は、日鉱記念館から日立オリジンパークという流れで見学してきたこともあり、先人たちの思いに共感できたと話す。

「小平さんは、東京帝国大学電気工学科を出て小坂鉱山で電気主任技術者を務めたのち、東京電灯(現東京電力)の発電所の送電主任という、高給かつ人が羨むような職を得た。それを惜しげもなく捨てて鉱山に身を投じた背景には、久原さんの志への共感とともに、外国の技術に頼っている状況を憂い、自分の手で電気機械を製作したいという学生時代からの思いがあったわけですね。その意志の強さをあらためて感じました」

日立最初の製品「5馬力誘導電動機」を見つめる松井氏。「小平さんは学生時代、『模倣をもって満足するだけで日本の工業を論ずることができるだろうか』とノートに書いていたそうですが、たとえ最初は輸入品の模倣でも、技術を自分のものにして、さらにいいものをつくっていくという、日本のものづくりの原型がここにあるのだと感じます」(松井氏)

社会課題に向き合う日立グループの歩み ― エネルギー・技術開発への発展まで

続く展示ゾーンでは、日立鉱山の修理工場としての実績を経て1910年に創業した日立製作所が電気機械の国産化の道をひらき、事業を発展させていく道のりを展示で辿る。

日立製品の輸出第1号となった扇風機

1920年代、日立は発電・変電設備や変圧器など電気設備インフラの国産化を推し進めていく。1923年には関東大震災に見舞われるが、震災の被害の大きかった京浜地方に優先して電気機械を納入するなど、目先の利益にとらわれず社会のために復興事業に尽力した。このことが結果的に日立製品の品質と企業姿勢に対する社会の信頼獲得につながり、国内外にシェアを拡大。日本有数の総合電機メーカーへと躍進を遂げるきっかけとなる。

戦後の高度成長期に入ると、日立はエレクトロニクス事業を急拡大し、国産コンピューター事業も本格化。公害や省エネルギーなどの社会課題の解決にもいち早く取り組んだ。
その後、バブル崩壊、さらにリーマンショック後の苦境を乗り越えるため、社会イノベーション事業への選択と集中を進め、ソリューションビジネスへの転換を図っていく。日立創業の精神を受け継ぎつつ、世界中のお客さまとの「協創」により、さまざまな社会課題を克服し、持続可能な社会の実現と人々のウェルビーイング向上に貢献することをめざしている。

「長い歴史の中で製品や事業の中身は変遷してきたけれど、『優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する』というミッションは変わらず受け継がれ、時代時代の社会課題に向き合ってきたのですね。そうした日立の企業姿勢がよくわかる展示でした」

2050年カーボンニュートラル実現に向けたエネルギーシステムにおける日立の先進的な取り組みを展示。エネルギーバリューチェーン全体を捉えた新たなソリューションや技術をパネルと模型で紹介している

日立の挑戦の歴史をビジュアルで辿るコーナー。「このテレビ、ポンパですね。うちにあったのと同じです!」と懐かしげな様子の松井氏

日立鉱山から始まった“未来を照らす遺産”と受け継がれる日立創業の精神

続いて松井氏は、日立の原点である日立鉱山工作課修理工場を再復元した創業小屋へ。創業当時に製造された5馬力誘導電動機は4台が現存、そのうち創業小屋に設置しているものは実際に動く様子が見られる。木造の簡素な小屋の内部には、当時を再現した大きな木のテーブルなども置かれており、創業当時、小平と彼の下に集ったエンジニアたちの息づかいが感じられる。
小屋の中をゆっくりと巡り、当時に思いを馳せた松井氏。

「日立創業の精神は『和・誠・開拓者精神』とのことですが、当時、鉱山の一角に建てられたこの小さな小屋の中で、まさに若き技術の開拓者たちが熱い議論を交わし、仕事に打ち込んでいた姿が想像されます」

日立鉱山工作課修理工場を再復元した創業小屋

スイッチを押し、大きな音と共にモーターが動き出すと松井氏からは「おぉ」という歓声が

創業小屋の内部では、戦時中に制作された記録映画「日立発達史」の映像も見られる

日鉱記念館から日立オリジンパークへ、日立のルーツと誕生からの歩みを辿ってきた松井氏は、「二つの施設は単に過去を保存しただけのものではなく、未来を照らす遺産なのだということを強く感じました」と振り返る。そして、久原氏から小平へと引き継がれたのは社会イノベーションのバトンであったのだろうと語る。

「JX金属グループと日立グループの原点が日立鉱山にあったということは偶然かもしれませんが、その後の両者の発展は必然であったと思います。久原さんが小平さんを日立鉱山に招聘したのはその才を認めていたからでしょうし、小平さんが日立鉱山に身を投じた理由の一つには久原さんの人柄があったのかもしれません。そして、日本の産業基盤を支え、従業員を含めた地域社会との共存共栄をめざすという久原さんの志に小平さんは共感し、受け継いで、さらに大きく広げたわけですね。それぞれが才能だけでなく『矜持』を持ち、それを後に続く者たちが連綿とつないできたからこそ、今日の姿があるのでしょう」

松井氏がオリジンパークを取材したこの日、大勢の小学生たちも見学に訪れ展示の説明に熱心に耳を傾けていた。

「久原さんが鉱山事業を通じて実現しようとしていた地域社会のあり方は、まさに今、日立が掲げている『ハーモナイズドソサエティ』――経済成長と地球環境と人々のウェルビーイングが調和する社会と合致しますよね。子どもたちには、過去を知るだけでなく、日立鉱山を源流として小平さんが次代につないだ先人の理想や生き様が未来につながるものであるということを理解し、受け継いでもらいたいと、心から思います」

松井 康真氏

松井 康真 氏
フリーアナウンサー・ジャーナリスト

富山県南砺市(井波町)出身。富山県立高岡高校卒業。東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科卒業。1986年 テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「ミュージックステーション」でタモリさんと組んでMC、「ニュースステーション」ではスポーツキャスターを担当、「ステーションEYE」、「ワイドスクランブル」、「やじうまプラス」などで報道情報キャスターとして活躍。2008年 テレビ朝日アナウンサースクール「アスク」学校長。在職中の2年間の指導で全国に100人以上のアナウンサーが誕生。2011年3月の東日本大震災を契機にアナウンス部から報道局原発事故担当記者に異動。その後に宮内庁担当、気象災害担当、コメンテーターを歴任。2023年テレビ朝日退社後に個人事務所「OFFICE ユズキ」を設立。株式会社タミヤ模型史研究顧問、富山県南砺市アンバサダー、株式会社獺祭メディアアドバイザー。

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