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第3回|FIELD REPORT
中国電力 島根原子力発電所3号機 完成間近!
建設中の最新プラントで見た、安全と信頼のあくなき追求

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第3回|松井 康真がゆく原子力最前線 〜現場×対話で読み解くエネルギーの行方〜

1974年に1号機が営業運転を開始した中国電力島根原子力発電所は、日立が国内メーカーとして初めて国産の原子炉を建設、納入した発電所です。1989年には2号機も運転を開始し電力供給に貢献してきましたが、3号機が運転開始を目前にひかえた2011年に東日本大震災が発生。すべての運転を停止してきました。
その後、1号機は2015年に廃止を決定し、2号機は新規制基準をふまえた安全対策工事を経て2025年1月に営業運転を再開、3号機は2030年度までの営業運転開始を目標に安全対策工事を進めています。

今回、3号機の燃料装荷(核燃料を原子炉圧力容器内に入れること)前の機会をとらえ、松井 康真氏が工事中の建屋内部を訪問。新規制基準をふまえた安全と信頼の追求に余念のない現場の様子を取材しました。

東日本大震災後、国内の原子力発電所を巡ったフィールドワーク


「ずっと来てみたかったところです。やっと見られるんですね」

島根原子力発電所の敷地に足を踏み入れた松井 康真氏は感慨深げにつぶやく。ここは島根県松江市鹿島町の北部、日本海に臨む約192万平方メートルの敷地はリアス式海岸の入り江に位置し、三方を山に囲まれている。

「東日本大震災のあと、私は約1年かけて全国の原子力発電所(54基)をすべて自分の目で見て回りました。建設中の青森県の大間原子力発電所にも行きました。基本的には仕事ではなく私費のフィールドワークでした」と振り返る松井氏。敷地内には入れないため、柵の外から建屋を見て立地を確認してオフサイトセンターやPR施設も見学したり、実際に車を運転して道路状況を確認し、巨大災害時の住民の避難経路などを考えたり、一般市民と同じ目線で各地の発電所を検証していたと話す。

「その中でもここ、島根原子力発電所はハードルが高くて、付近を通る道路からは建屋がよく見えないんですね。山の上まで行って草むらをかき分けて、ようやく見えた、という感じで。傍から見れば不審者ですよね(笑)。それがついに、しかも建設中の現場に入れるということで、今日はとても期待して来ました」

島根原子力発電所3号機、運転開始の目前で止まった計画

島根原子力発電所は、日本で5番目の原子力発電所として1970年に1号機の建設が始まり、1974年に営業運転を開始した。1号機はそれまで輸入に頼っていた原子炉の国産化をめざして中国電力と日立製作所が「共同研究」を行い、開発、建設した初の国産BWR(Boiling Water Reactor:沸騰水型原子炉)だ。その後、1989年に運転を開始した2号機とともに、長年にわたって地域の電力を支えてきた。

2006年に着工した3号機は、BWRの信頼性や安全性をさらに高めた最新型のABWR(Advanced BWR:改良型沸騰水型原子炉)が採用され、2012年3月に運転開始が予定されていた。定格電気出力137万3000キロワットと、稼働すれば国内最大級の原子炉となるはずだった。ところが、燃料を装荷する直前の2011年3月11日に東日本大震災と福島第一原子力発電所事故が起き、計画は中断。同年5月に当時の政府が運転開始の延期を決定した。
その後は、福島の事故の教訓をふまえて、原子力規制委員会が2013年に策定した、世界で最も厳しい水準の新規制基準に適合するための安全対策工事を行っている。新規制基準では重大事故への対策などが新設されたほか、自然災害対策の強化も求められ、地震や津波だけでなく、竜巻、火山の噴火、森林火災などの幅広いリスクに備えることが求められている。

「どのような対策がなされているのか、今から取材してきます」と、松井氏は3号機の建屋へ向かった。

島根原子力発電所3号機の外観と発電所全体の構内図(中国電力株式会社提供)

従来の規制基準と新規制基準との比較(出典:NRAホームページ

3号機の内部へ①――中央制御室〜原子炉オペレーションフロア見学室〜上部ドライウェル

島根原子力発電所3号機の全体構成

松井氏が最初に案内されたのは、制御室建屋にある中央制御室。原子炉、タービン、発電機といった主要設備や複雑なシステムを含む発電所全体の運転と監視を行う司令塔と呼べる場所だ。ここでは「改良型中央制御盤」が採用されており、大型の表示盤で運転状況を一目で見渡しながらスイッチ操作ができるなど、ヒューマンエラー防止に配慮した設計となっている。
続いて向かったのは原子炉建屋の5階、原子炉オペレーションフロアを見渡せる見学室。原子炉建屋の最上階にあたり、完成後は燃料交換作業時などに使用される場所だが、現在はパネルなどが展示され見学室として利用されている。


3階へ下り、鉄筋コンクリート製の原子炉格納容器(RCCV:Reinforced Concrete Containment Vessel)上部に位置する、上部ドライウェルへ。ここは原子炉冷却水の配管が破断した場合などに放出される冷却水を閉じ込める役割を担う空間だ。


3号機の内部へ②――サプレッションチェンバー

さらに下へと向かった松井氏は、サプレッションチェンバーを見て驚きの声を上げる。原子炉格納容器の下部にあるサプレッションチェンバーは、大量の水をためておく設備。事故が起きた際、発生した蒸気で原子炉格納容器内の圧力が高まりすぎるのを防ぐため、蒸気を水中に通して冷やし、水に戻す役割を担う。大量の水は非常用の炉心冷却水としても利用できる。また格納容器内の気体を外部に放出する必要が生じた場合には、いったんその水に気体を通すことで放射性物質を溶け込ませ、外部への放射性物質の放出量を低減する仕組みとなっている。

「サプレッションチェンバー自体は昔からあり、従来のBWRでは円い筒が輪になったドーナツ型の形状をしています。それがここでは格納容器の下部がぐるりと一周プールになっていて、想像の何倍もの大きさで驚きました。深さ19メートルあるとのことで、上から見ると足がすくみます。まさに超巨大な安全装置ということですね。ここは発電所が動き出したら絶対に入れない場所なので、貴重な経験ができました」


3号機の内部へ③――モジュール工法を採用したHCU室

次に松井氏は地下2階の水圧制御ユニット(HCU:Hydraulic Control Unit)室へ案内され、説明を受けた。HCUは、原子炉の緊急停止(スクラム)を行う場合に、制御棒の抜き差しを行うための装置である制御棒駆動機構にピストンで高圧水を供給し、水圧により瞬時に制御棒を原子炉に差し込む役割を担う。
3号機のHCU室はモジュール工法を採用し、部屋全体を工場で組み上げてから現地に運び込み、まるごと組み込む形で建設されている。

「従来の工法だと100本以上あるHCUを現場で1本1本取り付けて配管するため、どうしても時間がかかり、狭い空間で作業するため現場の負担も大きいようです。作業のしやすい工場で組み立て、部屋ごとズドンとはめ込んでしまえば、工期が大幅に短縮できるうえ、作業者の安全や負担軽減につながり、作業ミスも防ぐことができます。装置そのものだけでなく工法も進化しているのですね」と、感心した様子の松井氏。

3号機の内部へ④――ペデスタル〜タービン建屋

そして、地下1階でペデスタルと下部ドライウェルを見学。ペデスタルは、鋼板の円筒殻の内側にコンクリートが充填された構造で、主に原子炉本体を支える役割を担う基礎構造物であり、下部ドライウェルは制御棒駆動機構の交換や搬出入などを行うためのスペースを指す。

原子炉建屋の取材を終えると、タービン建屋へ向かう。ここでは、原子炉で発生した蒸気を利用してタービンを回し、発電を行う。蒸気はタービンを回したのちに復水器で冷却されて水になり、給水ポンプで再び原子炉へ戻される。松井氏は、それらの運転や管理が行われているオペレーションフロアを見て回り、装置類の説明を受けた。

「建設中の原子力発電所を間近で見て、あらためてその堅牢さを実感しましたし、安全対策も、進化しているだけでなく徹底されていることがわかりました」。建屋を後にした松井氏は納得した表情で話す。

「原子炉格納容器の鉄筋コンクリートの壁は2メートルもの厚さがあります。そのことは以前から知っていますし、今日も実際に見て頑丈さを確認しました。ただ、いくら強力な壁でも、原子炉の冷却機能が失われて水素がどんどん発生してしまうと、最後には圧力が高まりすぎて爆発するしかなくなります。そうならないよう、圧力が高まった場合には原子炉格納容器内の気体を大気に放出するのですが、その際にフィルタを通すことで放射性物質の外部への放出を抑えるフィルタ付きベントもきちんと設けられています。事故を起こさないだけでなく、起きたときの影響を最小限に抑える対策がなされていることも確認できました」

フィルタ付きベント設備は新規制基準で設置が義務づけられており、2025年1月に再稼働した島根原子力発電所2号機にも設置されている。また、島根原子力発電所全体の事故対策として、防波壁を海抜15メートルまでかさ上げしているほか、外部電源・非常用電源の確保、竜巻や火山灰への備えなども建屋の設計に組み込まれている。

島根原子力発電所3号機の稼働をめざす現場の責任者──日立・藤村 浩一所長が語る「安全への信念」

施設の取材を終えると、松井氏は島根原子力発電所3号機に関する日立の建設責任者である藤村 浩一建設所長にインタビューを行った。

藤村所長は青森県出身。日立に入社した当初は電力設計部に配属され、タービン発電機の設計に従事。その後、地元青森で六ヶ所村に核燃料再処理工場を建設する計画があることを知り、配属を希望。原子力開発部で再処理工場向けの装置や機器の設計業務を経て、現地で工事管理に従事した。2011年4月から1年間は福島第一原子力発電所で汚染水処理装置の工事や運用に取り組み、2019年から島根原子力発電所の建設に携わっている。

「ここ島根原子力発電所は2012年から運転できない状態が続き、2025年1月にようやく2号機が営業運転を再開しましたね。そのときはどんなお気持ちでしたか」と問いかける松井氏に、藤村所長はこう話す。

「私は3号機の建設工事を主に担当していたため2号機には支援という立場で関わっておりましたが、日立が手がけた原子炉の中で初めて再稼働を成し遂げたことで、私も含め全員の士気が上がりました。『なんとしても安全に再稼働させるんだ!』という熱い思いで皆、仕事に打ち込んできましたから」
3号機は稼働を目前に控えながら工事中断を余儀なくされ、安全対策の強化に取り組む日々が続いてきた。「その間、モチベーションを保つのは難しいのでは」という問いに、藤村所長は次のように答える。

「確かに、いつ動くのか見通せない時期が続いてきましたが、原子力で電力の安定供給に貢献したいという強い気持ちがわれわれの支えとなっています。原子力発電所の運転の大前提は、地域の方々のご理解を得ること、信頼を損なわないことです。それは、やるべきこと一つひとつに、手を抜かずに向き合うことでしか達成できません。特にここは国内の原子力発電所で唯一、県庁所在地に立地しており、品質と安全は絶対に守らなければならないという強い意識がモチベーションの源泉になっています」

そうした姿勢を保てる背景には「企業文化もあるのではないか」と松井氏が投げかけると、藤村所長は頷いた。「そうですね。結果を出すために頑張る推進力、『やりきる』という姿勢は、表からはなかなか見えないかもしれませんが、会社としてしっかり持ち続けてきたものだと思います」

島根原子力発電所3号機日立建設所 藤村 浩一所長

島根原子力館で感じた「地域と共にある原子力発電所」――学びと交流の拠点

取材の締めくくりに、松井氏は島根原子力発電所のPR施設である「島根原子力館」を訪れた。日本海を一望する高台に建つこの施設では、原子力について学べるだけでなく、イベントを通じて地域の子どもたちとの交流を深める取り組みも充実している。

「ここは地域との共生、共に歩もうという姿勢を感じます」と称賛する松井氏。「建屋の取材のとき、3号機の出力137.3万キロワットという数字は、イザナミノミコトのイザナミ(1373)に由来していると聞いたのですが、神話の国、出雲らしさを感じます。そうしたところにも地域に寄り添う姿勢が表れているのではないでしょうか」

島根原子力館には、原子炉圧力容器の一部、燃料ペレット、原子炉格納容器の鉄筋コンクリート壁の一部の実物大の模型が展示され、原子力発電所が体感できる工夫もされている。「原子力発電所がいかに巨大で頑丈か、そのスケール感が実感できますから、機会があればぜひ見学してほしいと思います」


“実直さ”がつなぐ島根原子力発電所の安全と未来

島根原子力発電所での一日を終えた松井氏は、現場と藤村所長の取材から受けた印象を「実直、その一言に尽きますね」と話す。真摯に、地道に、安全を形にすることに取り組む技術者たちの姿に「希望を感じた」という。

「今日、現場の方々の様子を拝見して、直接いくつも言葉を交わしたわけではありませんが、その雰囲気のよさは伝わってきました。皆さん、声かけをしっかりされていて、プライドをもって仕事に取り組んでいる様子は、ほんとうに素晴らしいと思います。そうした方々がこの国のエネルギーを、ひいては社会を根底で支えているんだということを、知ってほしいですね」

松井氏はまた、安全対策の徹底ぶりにも感心したようだ。

「新規制基準で竜巻対策も求められていることは知っていましたが、稼働している2号機の周囲には自動車が1台も停められていないんです。竜巻で巻き上げられて建屋にぶつかるのを防ぐためだそうです。設備だけでなくオペレーションでも対策を徹底されていることも印象に残りました」
島根原子力発電所3号機の営業運転開始は2030年度までを目標としている。

「稼働をめざして、そして稼働後も続く安全の追求を、私個人としても関心をもって見守っていきたいと思います」

松井 康真氏

松井 康真 氏
フリーアナウンサー・ジャーナリスト

富山県南砺市(井波町)出身。富山県立高岡高校卒業。東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科卒業。1986年 テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「ミュージックステーション」でタモリさんと組んでMC、「ニュースステーション」ではスポーツキャスターを担当、「ステーションEYE」、「ワイドスクランブル」、「やじうまプラス」などで報道情報キャスターとして活躍。2008年 テレビ朝日アナウンサースクール「アスク」学校長。在職中の2年間の指導で全国に100人以上のアナウンサーが誕生。2011年3月の東日本大震災を契機にアナウンス部から報道局原発事故担当記者に異動。その後に宮内庁担当、気象災害担当、コメンテーターを歴任。2023年テレビ朝日退社後に個人事務所「OFFICE ユズキ」を設立。株式会社タミヤ模型史研究顧問、富山県南砺市アンバサダー、株式会社獺祭メディアアドバイザー。

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