
巨大地震と津波が引き起こした福島第一原子力発電所事故から15年が経とうとしています。事故の影響が今なお残る一方で、復興へ向けて廃炉作業が行われている現場では、前例のない挑戦を一つひとつ積み上げながら、未来へと少しずつ歩みを進めています。
この事故をきっかけに原子力担当記者となった松井 康真氏が、今回、約10年ぶりに福島第一原子力発電所を再訪、廃炉の最前線を取材しました。同じく再訪となる東京電力廃炉資料館、Jヴィレッジも巡り、当時の記憶を振り返るとともに、復興した姿もその目で確認しました。福島第一原子力発電所で現在行われている廃炉作業は、事故後の対応にとどまるものなのか、それとも原子力の未来を支える基盤なのかーー。現場の声から、その答えを探ります。
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東日本の広範囲が激しい揺れに襲われた。この地震と津波により東京電力の多くの設備が被害を受けたが、中でも震源に近い東京電力福島第一原子力発電所では、地震の影響で外部電源が途絶。原子炉は設計通り緊急停止していたものの、地震発生からおよそ50分後に襲来した15メートルの津波で一帯が浸水し、原子炉の冷却、監視、制御などに必要な電源のほとんどを失った。
その結果、運転中だった1号機、2号機、3号機で原子炉の冷却ができなくなり、燃料が溶融。発生した水素により1号機、3号機、4号機の建屋で水素爆発も発生。大量の放射性物質が環境中に放出された。事故直後、政府が出した住民への避難指示の範囲は半径20キロメートル圏まで及び、約16万人もの人々が避難を余儀なくされた。
事故はその後、自衛隊、消防、警察、協力企業などの尽力により収束に向かい、2011年12月にすべての号機で冷温停止状態を達成。その後も安定状態を維持している。放射性物質の除染、インフラや生活環境の整備により、避難指示は徐々に解除されていき、現在では帰還困難区域だけが残されている状態だ。今なお多くの人々が生活に影響を受けているものの、復興に向けた歩みも進んでいる。
この事故を受け、福島第一原子力発電所の原子炉は、事故当時定期検査中だった5号機、6号機も含めたすべてが廃炉になると決定している。廃炉は終了までに少なくとも30〜40年はかかると見込まれる長い道のりだ。

東京電力廃炉資料館
こうした事故の実態や福島第一原子力発電所の廃炉事業の現状を確認できる場として、東京電力は2018年11月に「東京電力廃炉資料館」を開館した。
福島県双葉郡富岡町、JR常磐線の富岡駅から徒歩15分ほどの場所に建つこの建物は、以前は「エネルギー館」と呼ばれ、福島第二原子力発電所のPR施設だった。
松井氏は今回、約10年ぶりに福島第一原子力発電所を再訪するにあたり、まずこの廃炉資料館に足を運んだ。
「ここはエネルギー館の頃に1回、廃炉資料館になってからも1回、見学していますが、展示の内容も少し変わっているかもしれないですね」と話しながら、中へと向かう。
東京電力廃炉資料館は2階建てで、1階は廃炉事業に関するさまざまな情報を展示するゾーン、2階は事故の記憶と記録、反省と教訓に関する展示のゾーンとなっている。エントランスを入ると資料館のスタッフが出迎えてくださり、まずは2階のシアターホールへと案内された。ここでは東日本大震災の地震発生から原子力事故とその後の対応についてまとめた映像が視聴できる。淡々と事故の進行を追っていく映像からは、当時の現場の緊迫感があらためて感じられる。
映像を見終えると、1〜4号機それぞれで実際に何が起きていたのか、原子炉内部の視点から経過を振り返る展示へ。1号機では、燃料のほぼ全量が溶融し圧力容器を貫通、燃料デブリとなって格納容器底部に落下したと推定されている。2号機は水素爆発を免れたものの、放射性物質の放出量は最大だったとされる。また3号機、4号機の事故の状況も映像で具体的に示され、視覚的に理解できるよう工夫が施されている。

次に案内された「反省と教訓」の展示では、福島第一原子力発電所事故の「根本原因」と「なぜ防げなかったのか」を考察している。事故の根本原因は、津波対策の不備、過酷事故対策の不備、事故対応の準備不足。そして、なぜ事故を防げなかったのかという問いに対しては、リスクの過小評価と安全意識の不足、設計やトラブル対応などでメーカーや協力企業への技術依存が進み、みずから事故に備える技術や対応能力が不足していたこと、現場の事故対応の訓練や資機材の備えの不足、社会との対話不足といったことが相互に影響し合った「負の連鎖」があったとしている。

「『天災だったから仕方がなかった』では片づけないこと、人事を尽くせば防げた事故だったという認識を持つことが大事ですね」(松井氏)

1階では、まず福島第一原子力発電所における廃炉作業の全体像を把握できる約10分の映像を視聴。
続いて、放射性廃棄物の処理・保管についてパネルで説明を受けてから、原子炉格納容器内部調査に関する展示へ案内された。内部調査に関する展示では、1号機の調査に使用された日立の形状変化ロボット「PMORPH(ピーモルフ)」をはじめとするロボットの模型のほか、2024年11月に、事故後初めて2号機から試験的に取り出された燃料デブリの実物大模型も見ることができる。重さ約0.7グラムの小さな欠片ではあるが、これを分析することで取り出し工法や工具の選定、作業員の安全対策の検討などにつながるデータが得られる。2回目の取り出しも2025年4月に完了しており、今後も試験的取り出しと分析を進めながら、2030年代後半以降の実施が予定されている本格的な燃料デブリ取り出しに備えていくとの説明があった。

原子炉格納容器内部調査に関する展示では、床面への投影映像で格納容器の実際のサイズ感が体感できるようになっている

1〜4号機の現在の建屋の様子が模型でわかる

1号機内部調査用ロボットの模型
その後、汚染水・処理水の対策に関する説明を受けた。原子炉には現在、一日に約200立方メートルの冷却水が注水されている。燃料デブリなどに触れて放射性物質で汚染された冷却水は、処理装置に送られてセシウムとストロンチウムの除去と淡水化処理を行ったのち、再び冷却に使用されるという循環注水冷却が行われている。ただ、建屋には一日に約60立方メートルの地下水や雨水などが流入しており、循環注水に用いない分は、ALPS(多核種除去設備)でトリチウムを除く62種の放射性物質の大部分を除去したのちにタンクに保管してきたが、廃炉作業に必要な敷地を確保するなどの理由から、2023年8月より海洋放出を行っている。
海洋放出にあたっては、トリチウム以外の29種の放射性物質が規制基準以下であることを確認してから、海水を混合して700倍以上に希釈、トリチウム濃度を 1リットル当たり1,500ベクレル未満とした上で発電所の敷地より約1キロメートル先の海中に放出している。放出時のトリチウム濃度は国の規制基準の40分の1未満、WHO(世界保健機構)の飲料水基準の7分の1未満である。こうした処理水の海洋放出に関しては、「処理水ポータルサイト」にて多言語で情報公開を行っている。

廃炉資料館では、燃料デブリの調査に用いられた日立の水中遊泳ロボットや水中歩行ロボットなども展示されている
この日は約1時間強という駆け足での見学となったが、時間が許せば見るべき展示は多く、「事故を招いた要因の一つとして挙げていた、社会との対話不足の解消に努める東京電力の姿勢が感じられました」と松井氏は振り返る。その上で、次のように感想を語った。
「こちらで公開されている情報は、事故当時から取材してきた私にとっては既知の内容がほとんどでしたが、これほどにもわかりやすく見せる工夫が施されていますし、できれば多くの人にご覧いただきたいと思います。ただ、この場所は思い立ったらすぐ来られるというところでもありませんから、『事故の反省と教訓を風化させない』ためにも、東京都内などに同じような施設をつくってもいいのではないでしょうか」
廃炉資料館をあとにした松井氏は、現在も廃炉作業が進められている福島第一原子力発電所の見学に向かう。
「およそ10年ぶりです。おそらく相当変わっているでしょうね」と話しつつ現地に到着すると、日立の廃炉事業の現場責任者を務める福島現地事務所の伊藤 正人所長の出迎えを受け、構内へ。
視察での構内立ち入りには、厳重なセキュリティチェックがある。まず事前に身分証明書の写しを提出、当日は身分証明書のチェックを受け、一時立入許可証が発行される。さらに個人用線量計を受け取り、入退出ゲートで許可証が認証されると、ようやく中へ入ることができる。セキュリティの観点から、カメラやスマートフォン、スマートウォッチなどは持ち込み禁止。許可を受けたカメラでの撮影のみが許されている。
構内は車で移動し、まず1〜4号機が見渡せる「ブルーデッキ」へ案内された。デッキは1号機、2号機に近い場所にあり、車から降りて間近に(目測では100メートルほど)建屋を見ることができる。デッキ上や、建屋周囲の道路も含めた敷地内のほとんどの場所は、防護服なしで移動することが可能だ。
「最初に訪れた際には、厳重な防護服とマスクを身につける必要がありましたが、回数を重ねるに従って装備も軽減されていきました。しかし今回は本当に防護服もマスクも無く普通の作業服で動き回れるようになっているのには驚きました。作業員の方々もだいぶ楽になったでしょうね」と松井氏。
とはいえ、建屋の間近や内部へ入るには防護服を必要とし、建屋近くの排気筒の周辺などは、今でも高線量の状態が続いていると伊藤所長は言う。

左側に見えるのが1号機の建屋と排気筒。見学時、1号機では大型カバーの設置に向けた準備が行われていた
ブルーデッキを下りると再び車に乗り込み、ALPS処理水のタンクが並ぶ様子、ALPS処理設備の建屋、乾式キャスク保管設備などを車内から遠見しつつ、ALPS処理水の希釈放出設備へ向かう。
5・6号機近くの海沿いに建設されたこの設備は、海水を取水して処理水と混ぜ合わせ、希釈した処理水を沖合へ放水する役割を担っている。処理設備が見渡せるよう設置された「グリーンデッキ」からは太平洋が一望できるほか、津波によって座屈した大型のタンクが海縁にそのまま残されている様子も見てとれる。巨大津波の威力をあらためて感じさせる場所だ。
ALPS処理水希釈放出設備が見渡せるグリーンデッキには設備の模型も設置されている
その後、松井氏は、廃棄物の保管場所として利用されている7・8号機の建設予定地だった場所や、大型廃棄物を保管する建屋などを案内されたのち、入退域管理棟へと戻った。
退出時には、一人ずつ体表面モニタで汚染の有無チェックが行われ、メモ帳などの持ち物があれば、その汚染の有無もチェックされる。問題がなければゲートを通過でき、個人用線量計の数値を確認した上で、一時立入許可証を返却し、視察終了となる。ちなみに線量計に記録されていた今回の被曝量は0.01ミリシーベルトとごくわずかだった。
廃炉作業の現状(2026年2月時点)を見ると、福島第一原子力発電所の廃炉現場は10年前と大きく様変わりしている。1号機では使用済燃料プールからの燃料取り出しなどに向けて原子炉建屋を覆う大型カバーの設置が完了。現在、オペレーティングフロアのがれき撤去に向けた準備を行っている。プールからの燃料取り出しは、2027〜28年度に開始する予定だ。2号機では、早ければ2026年度第1四半期から予定している使用済燃料取り出し開始に向け、建屋の南側で燃料取り扱い設備の設置などの準備作業を進めている。3号機、4号機は、使用済燃料プール内の燃料取り出しを完了している。
津波への対策では、総延長約1キロメートル、海抜最大16メートルの防潮堤工事を完了した。防潮堤のコンクリートブロックは福島県内の工場で製造されたものだという。
構内は放射性物質の飛散抑制や放射線量を低減するために、モルタルなどを吹き付けて被覆するフェーシング工事がほとんどのエリアで完了している。事故当時は構内すべての場所で防護服と全面マスクの着用が必要だったが、この工事により2018年5月以降は約96%のエリアで簡易マスクと一般作業服で作業できるようになった。マスクや手袋などの装備なしで移動できるエリアもあるなど、労働環境も大きく改善した。作業員の被ばく線量は「100ミリシーベルト/5年」かつ「50ミリシーベルト/年」を越えないよう管理されている。
2015年に完成した大型休憩所には、廃炉作業を支える約4,000人の作業員のために、福島県産の食材で調理された温かい食事を提供する食堂やコンビニエンスストア、シャワールームなどが備えられている。入退域管理棟には24時間体制の救急医療室と救急車が備えられ、外部医療施設への搬送が必要な場合に備えたヘリポートも整備されている。
約10年ぶりに福島第一原子力発電所を再訪した感想を松井氏は次のように語る。
「私は、事故後初めて発電所の敷地内が報道陣に公開された2011年11月11日にテレビ朝日の代表、たった1人の代表として入ったんです。そのあと、記憶では3年間にわたって6回か7回、入りました。それこそ最初のときは完全防備で、時計をにらみつつ『あと何秒いられます』と言いながら取材していたのが、今は軽装で建屋を見ることができ、感慨もひとしおです。ただ、依然として建屋の内部は線量が高く、燃料デブリの取り出しにも相当な時間がかかる見通しですね。そのこともしっかり見つめていかなければいけないと感じました」

2011年当時、松井氏がニュース番組での解説のために自宅で自作した福島第一原子力発電所1号機の1/144スケールの模型。ペデスタル部分のカットモデルで汚染水が溜まっている様子を再現し、溶け落ちた燃料が格納容器底部を浸食している様子もわかる工夫がされている

福島現地事務所 伊藤 正人所長
視察を終えた松井氏は伊藤所長にインタビューを行い、廃炉の現場の状況などについて訊ねた。
伊藤所長が日立製作所へ入社したのは1991年。原子力設計部に配属され、原子炉圧力容器の内部に組み込まれるステンレス製大型構造物の設計に従事した。原子力分野を選んだのは、「大きなものを設計してみたいという思いがあったから」と話す。
10年ほど設計部で経験を積む間に予防保全工事計画の策定なども行うようになり、敦賀原子力発電所他で、原子炉内部のシュラウドを交換する大がかりな保全工事などにも参画。その後、製造部門へ移動し、炉内構造物の生産技術のほか、発電所の予防保全工事などにも関わってきた。
東日本大震災が起きた2011年当時は島根原子力発電所に配属されていたが、3月11日は偶然にも日立市近郊にいたという伊藤所長。協力メーカーの工場で、足場を組み高所での装置試験を行っている最中に激しい揺れに襲われ、身の安全を確保するのが精一杯だった。
その後、2012年に臨海工場の原子力製造部に戻り、再びモノづくりに携わったのち、2016年3月に福島現地事務所の副所長として福島第一原子力発電所に赴任する。以降、約10年にわたり廃炉という前例のないプロジェクトに向き合い、その業務は多岐にわたる。

「廃炉はこれから何十年もかかる事業ですけれど、皆さんモチベーションはどう保っておられるのですか」と松井氏が訊ねると、伊藤所長は次のように答える。
「現場には地元の出身者も多くおりますから、やはり『われわれの力で廃炉を進めたい』という思い、カッコよく言えば『使命感』がモチベーションとなっています」
その上で、廃炉事業は福島第一原子力発電所だけの問題にとどまらないと指摘する。
「ここで培われた知見は、他の原子力発電所の廃炉だけでなくさまざまな産業分野に応用できる可能性があります。さらに、廃炉の着実な実行は、国の原子力政策のこれからをも左右する基礎的な要素だと考えています。他の原子力発電所の再稼働や、新設の議論などにも影響を与えるかもしれない。だからこそ、しっかり進めていかなければならないという責任を感じています」
また、当初の計画よりも行程が遅れ気味なことについて松井氏が問うと、「一番大事なのは安全と品質です」と伊藤所長。工程よりも安全優先で、「おかしいと感じたら立ち止まる」という姿勢は、現場全体で共有されているという。
「今後の見通しについては、まず1号機のがれき撤去と使用済燃料の取り出しに注力します。それが終わると、少しずつ燃料デブリ取り出しに向けた次のステップが具体化するのではないでしょうか。全体を見通しつつも、目の前の工程を着実に一歩一歩進めていくことが大切だと考えています」
伊藤所長の言葉を受けて松井氏は、インタビューをこう締めくくった。
「廃炉は単なる後始末ではなく、原子力の未来を支える基盤づくりであるということですね。廃炉の道は原子力の未来にもつながるものだと思います。その最前線に立ち続ける伊藤所長の言葉からは、次世代にも引き継がれていく責任を背負う覚悟が伝わってきました」
福島第一原子力発電所取材の最後に、松井氏は、事故当時に重要な役割を担ったナショナルトレーニングセンター、Jヴィレッジへ。
こちらも約10年ぶりの再訪となる。「事故後の福島第一原子力発電所に取材で入る際には、こちらで防護服に着替えて全面マスクをつけて、バスに30分以上揺られながら向かっていました。当時の記憶が蘇ります」と話す松井氏。Jヴィレッジ企画総務グループ長の明石 重周さんの案内で、Jヴィレッジの歩みを約60メートルに渡る壁面に描いた「J-VILLAGE STREET」を見て回り、震災当時を振り返った。


1997年7月にグランドオープンしたJヴィレッジは、福島県双葉郡楢葉町と広野町にまたがる約49ヘクタール(東京ドーム10個分)の敷地面積を誇る国内有数のスポーツ施設だ。日本初のサッカーナショナルトレーニングセンターとして設計され、国内外の強豪チームや日本代表チームも利用してきた。複数のサッカーグラウンドのほか宿泊施設などもあり、サッカー以外の各種スポーツ、合宿、研修などにも利用されている。
オープン以来、トップアスリートが数多く訪れ、「サッカーの聖地」として愛されてきたJヴィレッジのピッチが一変したのが、2011年3月11日。大きな揺れによってピッチの一部には亀裂が入り、周辺の道路には陥没やひび割れが発生した。建物には大きな被害はなかったことから、当日は避難所として利用されたが、翌日は福島第一原子力発電所事故による避難指示が発令され、スタッフも全員が退避。震災から数日後には、Jヴィレッジはスポーツ施設としての営業を一時休止し、福島第一原子力発電所事故に対応するための前線基地としての役割を担うことになった。
青々としていた芝のピッチには砕石が敷き詰められ、震災対応のために全国から集まった作業員の駐車場に転用された。建屋は作業員の待機場所のほか、事故対応に必要な数多くの物資を保管する倉庫として利用され、段ボールなどが積み上げられた。広い敷地を利用して資材ヤードや仮設の宿舎なども次々に整備されていったJヴィレッジは、スポーツ施設とは大きく様相を変えることとなった。
その後、事故対応の拠点機能が福島第一原子力発電所内に移され、2020東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定したことなどを受け、2013年頃からJヴィレッジ本来のナショナルトレーニングセンターとしての機能を復活させようという動きが起きる。東京電力の福島復興本社がJヴィレッジ内に置かれ(2016年に浜通り電力所に移転)、天然芝の再生、全天候型練習場の建設なども進められた。そして、営業休止から7年あまりを経た2018年7月28日14時46分、再始動記念試合のキックオフと同時に、震災以降止まっていたJヴィレッジスタジアムの時計の針が動き始める。翌2019年4月、すべての施設が利用可能になりJヴィレッジは全面営業を再開した。

現在の美しい天然芝のピッチを目にした松井氏は、「当時、ここに自衛隊の戦車が置かれていたり、ヘリコプターが離着陸したりしていたことを思うと、隔世の感があります」としばし感慨にふけり、一日の取材を次のように結んだ。
「福島第一原子力発電所の事故は、私が原子力報道に携わるきっかけとなったできごとで、あれから15年が経とうとしていることに、あらためて時の流れの速さを感じました。原子力取材の現場から離れ、外から見ていると、廃炉も復興も遅々として進んでいないような印象もありましたが、実際に現場に入ると、やはり大きく変わったことを感じました。一方で、依然として変わっていない部分もあるわけですが、ここJヴィレッジがそうだったように、着実に復興への歩みは進んでいくという希望の兆しが見えた一日でした」

松井 康真 氏
フリーアナウンサー・ジャーナリスト
富山県南砺市(井波町)出身。富山県立高岡高校卒業。東京工業大学(現 東京科学大学)工学部化学工学科卒業。1986年 テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「ミュージックステーション」でタモリさんと組んでMC、「ニュースステーション」ではスポーツキャスターを担当、「ステーションEYE」、「ワイドスクランブル」、「やじうまプラス」などで報道情報キャスターとして活躍。2008年 テレビ朝日アナウンサースクール「アスク」学校長。在職中の2年間の指導で全国に100人以上のアナウンサーが誕生。2011年3月の東日本大震災を契機にアナウンス部から報道局原発事故担当記者に異動。その後に宮内庁担当、気象災害担当、コメンテーターを歴任。2023年テレビ朝日退社後に個人事務所「OFFICE ユズキ」を設立。株式会社タミヤ模型史研究顧問、富山県南砺市アンバサダー、株式会社獺祭メディアアドバイザー。