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Hitachi

200年の歴史ある英国鉄道の運用保守をどう変えたのか?
「HMAX」に見る、現場課題にAIで挑んだ日立の挑戦とは

黒川亮 × 我妻浩二

英国鉄道の現場課題に挑んだ日立レールの知見は、「HMAX」の源流になっている。アプローチが難しい領域「氷山の水面下」に眠る新しい価値とは? 黒川亮と我妻浩二が語り合った。

1800年代、英国で産業革命を支えた鉄道。約200年が経過した今、その運用保守はコストや人財面など、多くの現場課題に直面している。デジタル化によってこれらの課題に挑んだ日立レールの試行錯誤の歴史は、日立製作所(以下、日立)の、AIで社会インフラを革新する次世代ソリューション群「HMAX™ by Hitachi」の源流にもなっている。

産業構造が大きく転換する中、日立はHMAXで何をめざすのか。現場変革のポイントや日本企業の勝ち筋とは何か。AI戦略を担う日立の黒川亮と、鉄道ビジネスをリードする日立レールの我妻浩二の対談から探る。

200年の歴史を持つ鉄道インフラが直面していた「危機」

我妻浩二

我妻浩二(Executive Director, Vehicles CTO, Hitachi Rail Limited/日立製作所 鉄道ビジネスユニット 理事)

黒川
最初に伺いたいのは「HMAXとは何か」です。その本質について、原点を知る我妻さんはどう見ていますか?
我妻
HMAXの本質は、われわれが英国で積み重ねてきた10年間の試行錯誤そのものです。ツールありきではなく、「現場の切実な課題」から生まれたソリューションの集合体です。海外では運用保守業務の担当者が頻繁に変わるため、日本のような「以心伝心」は通用しません。そうした環境でも現場が回る仕組みが必要でした。
黒川
現場のどのような課題に直面したのですか?
我妻
鉄道車両の車輪についているベアリング(車軸の回転を支える部品)の保守などがあります。鉄道車両は年間50万〜60万キロメートルも走るミッションクリティカルな乗り物で、ベアリングの不良は脱線に直結します。しかし外からは状態が見えないため、「1万個ある部品の中に1つでも不良があるかもしれない」というリスクに対し、これまでは2年ごとに全て新品に交換していました。
黒川
交換の手間やコストが課題だったのですね。
我妻
はい。そこでセンサーによる24時間監視を導入したところ、不具合品は年間に数個だと判明しました。その数個だけを交換することで問題のない残りの大多数は2年で捨てる必要がなくなり、交換時期を4年にできました。コストが下がるだけではなく、不具合品を確実に特定できることで信頼性も上がったのです。
黒川
そうした取り組みができた背景には、コンピューティング環境やAIの発展が大きいのでしょうね。
我妻
おっしゃる通りです。HMAXの取り組みが加速した要因は4つあります。1点目は計算能力の向上で、最長3年かかっていた映像分析がわずか3日で完了するようになりました。2点目はAIの進化で、専門知識がなくても高度な分析が可能になりました。3点目はセンサー技術の発展により、複数データを用いて回答精度を向上させたことです。これらがそろい、無駄な定期交換から脱却できました。
黒川
技術的な進化が社会全体で受け入れられたのも大きな要因ですよね。英国に長くお住まいの我妻さんから見て、やはりグローバルでAIが自然に受け入れられる土壌ができているのでしょうか。
我妻
はい。それがまさにHMAXが加速した4点目の要因です。AIに対する「人」の変化が、一番大きなポイントですね。誰もがAIに触れるようになり、人々はAIを「自分の生活や仕事をより良くしてくれるもの」として捉えるようになっています。技術と人、双方の環境が整ったことが変革を加速させました。
黒川亮

黒川亮(日立製作所 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット 事業主管/Vice President AI Strategy)

オペレーショナルな課題を解決する「Train as a Sensor」

黒川
ベアリングの延命は、HMAX事業の立ち上げにおいてまさに「うまくいったこと」の好例ですね。逆に、壁にぶつかった事例はありますか?
我妻
英国では規制で目視点検が義務付けられており、毎晩300人が真夜中の線路を歩くという危険な作業が行われていました。これに対してAIによる自動監視を提案しても、当初は「従来通り人が見れば問題ない」と拒まれました。数年かけて安全性を証明し、ようやく採用に至ったのです。
黒川
「決まっているからその通りやる」という規制の壁は、日本でも大きな課題です。ただ、英国の鉄道は歴史が長い分、より根深い問題がありそうですね。
我妻
ええ。英国の鉄道は200年の歴史があります。インフラも規制も当時のままというケースが多々あり、従来の常識が通用しない面が増えてきています。一方で、近年環境意識の高まりから「CO2排出を考慮して輸送手段を選びたい」と考える一般ユーザーが増え、「飛行機より鉄道」という需要は急増しているんですよね。つまり、インフラは老朽化しているのに、利用者は増えるというギャップが生まれているわけです。
黒川
そのギャップを埋めるための切り札が、デジタル技術というわけですね。
我妻
そうです。車両だけでなくインフラ側もモニタリングしなければ、この需要には応えられません。そこで推進しているのが、営業運転中の車両にセンサーを取り付けて走りながらインフラの状態を診断する取り組みです。これによってインフラの稼働率を向上させ、ユーザーの満足度を高めるのが狙いです。
黒川
まさに電車がセンサーそのものである「Train as a Sensor」の例ですよね。

圧倒的な応答速度を実現する「Train as a Data Center」

黒川
驚くべきは、それほど膨大なデータを扱っているのにHMAXは非常にコンパクトなリソース構成で実現されている点です。巨大なサーバー群に頼らないITシステムとして、課題もあったのではないかと想像しています。
我妻
最大の課題は「通信遅延」でした。膨大なデータをクラウドにアップロードして解析していたのでは結果が出るまで数日かかり、トラブル対応が手遅れになります。「予兆の段階で、15分以内に結果が欲しい」という現場の要望に応えるには、クラウド経由では間に合いません。
黒川
それをどのように解決したのですか?
我妻
エッジコンピューティングがポイントです。今は、かつてのスーパーコンピュータクラスの性能を持つ環境をそのまま車両に載せられます。今まで車両に搭載していた「オンボードサーバー」を、GPUを含む「モバイルデータセンター」に置き換えるプロジェクトを推進しているところです。車両にGPUを含めたデータセンターを載せ、リアルタイムで車両の情報を提供できるようにしました。そうすることで、不具合が見つかったときに修理したり、車両を止めたりするなど迅速な対応が可能になりました。
黒川
「15分以内に結果が欲しい」という要望に応えるお話は、顧客にとっての「体験」そのものに関わるエピソードですね。
我妻
その通りです。デジタルを語る前に「何がペインか」を突き詰めると、結局は「時間」に行き着きます。今まで待たされていたものが一瞬で終わる。このストレスフリーな体験こそが、顧客が最も実感できる価値ですよね。

デジタル化やAIで重要になる、「情物一致」のチーム作り

黒川
実際にHMAXの取り組みを行う上で、社内ではどのようなチーム体制で進められたのですか? 当時、鉄道業界では珍しかったデータサイエンティストを採用したと聞きました。
我妻
チーム体制のお話をする前に、HMAXの取り組みに不可欠な考え方「情物一致」(じょうぶついっち)について説明します。
黒川
「情物一致」? それは何ですか?
我妻
情物一致とは、デジタル情報と実物の状態が一致している状態です。情報と実物が一致していれば、AIのアウトプットは正しいといえます。ただし、ズレがある場合、AIの答えが誤っている可能性が高まります。この一致を確認するためには、情報を解析し、実物と照合する必要があります。そのために、データサイエンティストを採用しました。しかし当時、鉄道業界にはデータサイエンティストがいませんでした。そこで、他の産業分野のプロフェッショナルに入ってもらったのです。
黒川
鉄道業界に存在しなかったデータサイエンティストを採用するのは大きな決断だったでしょうね。ただ、AIでオペレーションを楽にするにはデータだけでなく現場に詳しい人財も必要です。
我妻
その通りです。そのため、物理的な整合性を見るメカニカルエンジニア、発生している事象とデータの整合性を検証するエレクトリカルエンジニア、点検・修理・改善を専門的に行う技術者で、現場の信頼性を支えるメンテナンススペシャリスト、そして最後に安全性を担保する「RAMS」(ラムズ)*エンジニアもチームに迎えました。データサイエンティストを含むこれら5種のスペシャリストが一つのチームとなり、情物一致を実現しているのです。
  • 鉄道業界におけるRAMSは、鉄道システムの安全性・信頼性を国際的に保証する枠組みであり、海外展開には欠かせない規格。

仮想空間で物理法則を再現する「フィジカルAI」への進化

黒川
OTの世界でRAMSの基準をクリアする。これには、先ほどおっしゃっていたコンピューティング能力の向上が想像以上のインパクトをもたらしたのでしょうね。
我妻
そうですね。分かりやすい例が車の自動運転です。今までは、リアルな世界で環境を再現しテストする必要がありました。そのため、走行試験を繰り返しても、何百万時間かけたところで実際起こり得る現象の2%しか試験できませんでした。残りの98%をカバーして承認を取るには、10年かかる。そこで今は、AIが生成した「シンセティックデータ」(合成データ)を使って、コンピュータ上でさまざまな状態を作り出して仮想空間の中で試験しています。
黒川
それはまさに、日立が戦略として掲げている「フィジカルAI」の世界ですね。現在はLLM(大規模言語モデル)のような言葉や、画像のAIが注目されがちですが、われわれが日々接する産業にとって重要なのは現実世界の物理法則を理解し、予測できるAIです。
我妻
コンピューティング環境の進化で、試験にかかる時間は大幅に圧縮できるようになりました。HMAXで培った情物一致の現場データとフィジカルAIの技術が融合すれば、インフラの保守や設計の在り方は根底から変わるでしょう。

アプローチが難しい「氷山の水面下」に「ベストセラー」の積み重ねで挑む

我妻
現場の課題解決ができるデジタルソリューションが実現できたとして、それを現場に使ってもらうためには、「ユーザーが使いやすいプラットフォームをどう作るか」「ローカルな取り組みをどうグローバルに展開するか」「さまざまな法規制にどう対応するか」という課題もありました。
黒川
プラットフォームの使いやすさやグローバル展開、法規制対応については鉄道に限らずHMAXそのものが持つ課題といえそうですね。これからビジネスを拡大させる上で、デジタルが果たす役割やソリューションとしての「勝ち筋」をどう見ていますか。
我妻
HMAXの起点はローカルな課題解決ですが、海外展開するためには言語や規制の壁があります。そこで、個々の機能をモジュール化して「ベストセラー」として1つのプラットフォームに統合することで、国を超えてシームレスに使える環境をめざしています。
黒川
誰もが簡単に使える状態を作るには、「認証」と「データ接続」の壁を越えなければなりませんよね。いくら見た目が良くても、必要なデータにすぐにアクセスできなかったり複雑な認証が必要だったりすると「ストレスフリーな体験」は実現できません。
我妻
その通りです。世の中を見ると、容易なデジタル化はすでに終わっています。残るは「センサーがなくてデータが取れない」「規制が厳しい」といったアプローチが難しい領域、いわゆる「氷山の水面下」です。この見えない巨大な課題に対し、ITとOT、プロダクト、人のノウハウを組み合わせて挑める点がHMAXおよび日立グループの最大の強みです。

日本のリーダーへの提言 現場と経営を「翻訳」してつなぐ

黒川
お客さまにこの取り組みをお話しすると、一番気にされるのは「で、HMAXを入れると結局いくらもうかるんですか?」ということです。コスト削減や稼働率向上といった数値目標を、お客さまとどのように合意形成していますか?
我妻
ROI(投資対効果)が曖昧だとPoC(概念実証)疲れを起こします。重要なのは、技術から入るのではなく最初に「コスト10億円削減」といった経営インパクトを決め、そこから逆算してプロセスや投資額を整理することです。最後にどんなインパクトを生むのかを定義することで、PoCが単なる実験で終わらず、事業に直結する取り組みになります。
黒川
最後に、現場課題を持つ企業のリーダーに向けて変革のアドバイスをお願いします。
我妻
やみくもな解決ではなく、「経営インパクト」と「コスト」を数字で示して初めて経営者は投資判断ができます。現場と経営の対立を放置せず、双方の視点をつないで合意形成を図る力こそがリーダーには必要でしょう。
黒川
現場と経営をつなぐ「翻訳者」としての視点、HMAXの進化の軌跡、大変勉強になりました。本日はありがとうございました。