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「医療分野においても今後さらにビッグデータ活用の新たなドアが開かれていくだろう」と語る石井一夫氏。前回ご紹介した「ゲノム解析に基づく個別化医療」など、すでに世界各国で医療分野におけるビッグデータ活用は本格化しつつあります。そこで今回は、現在進行形で展開される国内外の事例、さらに、それによって開かれる新しい医療の可能性についてご紹介します。

電子カルテとゲノム情報を統合して個別化医療を実践

医療分野におけるデータ活用を語るうえで、ひとつのエポックメーキングな出来事が2005年ごろにありました。それは、ゲノムの塩基配列を自動的に高速で読み取ることを可能にした新しいシーケンシング技術の登場です。この技術を活用した新世代のDNAシーケンサーによって、低コストで大量のゲノムデータを書き出せるようになりました。

一方で、大容量メモリーによる大量並列処理やHadoopによる分散処理システムといったビッグデータ処理の技術が登場しました。ビッグデータとは「大量で(Volume)」「多種類で(Variety)」「高頻度に変化する(Velocity)」というのが定義ですが、そういう意味でゲノムデータはまさにビッグデータそのものでした。ここにいたって医療分野におけるビッグデータ活用もいよいよ本格化するようになったのです。

現在では、主要先進国を中心に世界各国で医療分野でのビッグデータ活用が進められており、中でも有名なのが、ゲノム診断の先進国である米国で2007年からスタートした「eMERGEネットワーク」です。米国立ヒトゲノム研究所からの資金提供を受けるこのプロジェクトには、複数の大学や医療機関が参加しています。
このプロジェクトでは、個々の患者に現れる症状を記述した電子カルテとその患者のゲノム情報を照らし合わせることで、症状とゲノムとの間の因果関係を明らかにして、個別化医療に応用しようとしています。

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個別化医療の主な対象疾患は遺伝性疾患やがんで、例えば、プロジェクトに参加するメイヨークリニックでは、乳がん患者のゲノム配列解析を行い、オーダーメイドのがん化学療法を実施するプランが進行中です。
また、このプロジェクトではゲノム情報に基づく創薬的なアプローチも展開されており、参加組織のひとつ、ヴァンダービルト大学病院では薬剤代謝酵素の遺伝的背景に基づいた薬剤投与予測システムがすでに稼働中です。このシステムは、各患者のゲノム情報から、ある薬をその人に投与した際の反応・効果を予測するもので、個々の患者に最適な薬が何かを判断する仕組みづくりに応用できる研究としても注目を集めています。

現在のところ、こうした先進的な取り組みを展開しているのは米国でも比較的規模の大きな医療機関に限られますが、今後は小さな病院でもビッグデータ活用が進み、個別化医療がより身近になっていくことが期待されています。

地域住民のゲノム解析を行うプロジェクトが被災地・東北で始動

一方、日本国内でも医療分野でのビッグデータ活用が本格化しつつあります。その動きを象徴するようなビッグプロジェクトが、東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方でスタートしました。それが、「東北大学東北メディカル・メガバンク機構(ToMMo)」が、岩手医科大学と共同で進める「東北メディカル・メガバンク計画」です。

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このプロジェクトでは、被災地住民の一人ひとりの特性に合わせた個別化医療・予防の実現をめざしており、宮城県と岩手県の住民から提供されるゲノムを解析する「コホート調査」を実施しています。コホート調査とは、多くの人々を対象に長期間にわたって健康状態を追跡する調査で、このプロジェクトでは一般の住民を対象とした地域住民コホート調査とともに、同地域の妊婦とその家族を対象とした三世代コホート調査も実施されるようです。

具体的には、まず日本人の標準的なゲノム配列のデータベースを構築します。さらにこの標準的なゲノム配列と調査対象者一人ひとりのゲノム配列の比較や個々の診療情報などをもとに、ゲノムの差異と疾患との因果関係を統計的に解析することで、精度の高い個別化医療・予防を実現していくそうです。

また併せて、ゲノムの解析結果や血液などの生体試料、生活習慣や居住環境、病歴などに関する調査結果といった多種多様なデータを保管・一元管理し、医学研究者や製薬会社などに貸し出す「複合バイオバンク」の構築もめざしているといいます。

うつ病や統合失調症など問診頼みの心の病にもゲノムのメスを

実は私もいま、ビッグデータを活用したプロジェクトを進めています。ご存じのとおり、現在、社会状況や経済状況の悪化などを背景に、多くの方がうつ病などの精神神経系疾患を患っています。1999年以降、その数は急増していて、2008年にはその患者数はがん患者の2倍以上、糖尿病の患者数よりも多くなりました。中でもうつ病患者は1996年が43.3万人だったのに対して2008年には104.1万人と、12年で実に2.4倍も増えているのです。

最悪の場合、精神神経系疾患は自殺などを誘発する恐れもあることから社会問題化している一方で、その原因はいまだに解明されておらず、診断も基本的に問診だけに頼っている現状があります。つまり、うつ病や統合失調症は科学的なエビデンスによる診断法が確立されていない、いわゆる"アンメットメディカルニーズ"(未充足の医療ニーズ)の疾患であり、より高精度な診断法の確立は喫緊の課題だと言えるのです。

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そこで私の所属する研究室では、徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部精神医学分野との共同で、ゲノムレベルのデータ分析によって精神神経系疾患の診断法の確立をめざす研究に着手しました。

このプロジェクトは、精神神経系疾患の患者と健常者のゲノム情報を比較・分析して科学的なエビデンスを取得することで、問診を通じた患者自身の訴えなどと合わせて、以前より精度の高い診断を実現しようというものです。

こうした取り組みによって、これまで診断の難しかった精神神経系疾患の正確な診断が可能となるでしょう。さらに個々の患者と治療薬との相性の解明や、より効果的な新薬開発などにも応用できると考えています。

医療分野のビッグデータ活用でも、課題はやはり人材育成

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私の専門分野では、他にも、イネなどの農産物あるいは牛や豚といった家畜の遺伝子情報をもとに新品種開発や品種改良に取り組む「ゲノム育種」や、環境微生物のゲノム解析によって環境汚染や生態系の状態を調査する「環境アセスメント」などの研究が進んでいます。

これらの研究テーマは、いずれも従来までは限られた情報をもとに研究を進めざるをえなかった領域ですが、処理できる情報が一気に数億項目単位へと爆発的に増えたことで、基礎法則に頼ることなく観測された事実をそのまま理解することが可能になりました。

これにより食糧問題や環境問題におけるさまざまな未解決問題が克服されようとしており、医療分野で起きていることと同様に、私たちのクオリティオブライフの向上に大きく貢献するでしょう。

このように、これからの私たちの暮らしに不可欠ともいえるビッグデータ活用ですが、そのさらなる普及・進展のためのキーファクターはやはり人材です。

そういう意味で大学教育においては、情報科学やデータサイエンスが工学や理学以外の生物系学部でもきちんとしたカリキュラムとして取り込まれることが望ましいでしょう。そこで東京農工大学の農学系ゲノム科学人材育成プログラムでは、2011年4月から大学院生を対象にゲノム科学に関する研究テーマを募集し、解析に必要な技術を習得させる教育プログラムを実施しています。

医療や農学という専門領域おいてビッグデータを活用しながら成果を上げていくためには、少なくとも、統計科学に関する知識やスキル、さらに、ビッグデータを取り扱ううえで不可欠な情報処理技術やITリテラシー、そしてもちろん、それぞれの専門領域やゲノムに関する医学的知識のすべてが必要とされます。しかし現状に目を向けると、これら3つの分野すべてを網羅的に習得している人材は圧倒的に不足しているのは明らかです。

こうした人材育成という難しい課題をいかにして乗り越えていけるか――その成否こそ、日本が今後、ゲノム科学の先進国になれるかどうかの大きな試金石となるのではないでしょうか。

プロフィール

石井 一夫(いしい かずお)

東京農工大学農学府農学部農学系ゲノム科学人材育成プログラム特任教授。ゲノム研究者としての実務家の視点から、ビッグデータ活用のあるべき姿を追求するために「ビッグデータ活用実務フォーラム」を2013年6月に設立。さまざまな現場でのビッグデータ活用に関する情報の交換・共有・発信の場を提供することを通じて、若手データサイエンティストの人材育成に取り組んでいる。

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