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株式会社 日立製作所 ひたちなか総合病院ひたちなか地区産業医募集サイト

先輩たちの声

産業医は「哲学する医師」です

中谷敦先生(40代 専属産業医)

――― これまでの経歴をお聞かせください。

神奈川県の高校を卒業後、北九州の産業医科大学に入学しました。なぜ、産業医の道を選んだかというと、その分野の「先駆者」「スペシャリスト」を目指したいと思ったからです。仮に、私が臨床医になったとしても、何百人・何千人といる臨床医のなかに埋もれてしまうかもしれない。それだったら、「産業医」という分野で、ほかの先生たちが誰もやっていないことを成し遂げてみたかった。それこそが「私らしい生き方」だと思ったんです。

産業医科大学を卒業後は、日立製作所の日立総合病院で2年間の研修を経て、日立製作所の日立健康管理センタで産業医として働き始めました。先輩の指導のもと7年間勤めたのち、現在の職場である水戸健康管理センタに赴任してきたのですが、赴任当初はとにかく驚きの連続でした。

――― 「驚き」というと?

水戸健康管理センタは工場のど真ん中にあるので、内科から外科、さらにメンタルまで、あらゆる事例への対応が求められます。例えば、「解離性大動脈瘤」の症状が見られる従業員さんをドクターヘリで救急搬送したこともあります。ほかには、高所から落下した人、感電した人、薬品で炎症や中毒を起こした人、工場内をジョギング中に倒れた人など、さまざまな方の処置や搬送を行います。その一方で、職場の人間関係で悩んでいる人のために職場の上司にかけあってみたりと、工場の敷地外に施設があった日立健康管理センタでは、まず遭遇しなかった出来事の連続なので、相当鍛えられましたよ。

――― 幅広い知識や経験が求められそうですね。

はい。外科や内科の知識はもちろんのこと、救急の知識も必要ですし、障害を抱えた方が職場復帰するときのケアを考えるのも産業医の役目です。自分だけで分からなければ、リハビリの専門家を招いて話を聞きます。さらに、そのケアに必要なコストを会社に捻出してもらうため、説得材料となる資料を集めて、プレゼンしなくてはなりません。もちろん難しさもありますが、みずからの働きかけで、会社ごと巻き込んで、よりよい方向に動かしていけるのが、産業医の醍醐味だと思います。

中谷敦先生(40代 専属産業医)

顔を合わせて、会話を重ねて、初めて見えてくるものがあります

――― 非常に興味深いです。中谷先生がモットーとされていることはありますか?

モットーは「現場主義」です。常日頃から現場に足を運んで、従業員さんと顔をつきあわせて「最近なにか変わったことはない?」と会話を重ねることで、初めて分かることがたくさんあります。こういったことは、健康診断のマークシートには書かれていないですからね。

―――「現場主義」ですか。なんだか、刑事さんのお話みたいですね。

たしかに(笑)。産業医の仕事は毎日がドラマティックですよ。全国の産業医のエピソードを集めたらすごいことになるんじゃないかな。

中谷敦先生

中谷敦先生

すべてのことが「産業医」の仕事につながっています

――― 休日の過ごし方についてお聞きしてよろしいですか?

趣味で合気道やヨガをたしなんでいます。合気道は2段です。それから、講演活動や学会活動で全国各地を回ったり、救急隊との合同トレーニングに参加しています。

――― 休日もご多忙なのですね。

東京の精神科医の先生のもとへ勉強しに行ったり、鍼治療を学んだりもしていますよ。仕事以外でのこういった経験や出会いは、一見関係ないようでいて、すべてが産業医の仕事につながっていると思います。

産業医に大切なのは「自己追求」を怠らないこと

――― それでは、産業医を志すみなさんへメッセージをお願いします。

産業医になるみなさんには「自己研鑽」の気持ちを持ち続けてほしいと思います。私の尊敬する先生の言葉で「産業医は哲学する医師である」というものがあるのですが、自分の時間が確保できる産業医という仕事だからこそ、その時間をむだにせず、自分自身の成長のために費やすことが大切です。

産業医は働く場所や状況によって、求められるものが異なる仕事です。足がかりがないところで、自分の存在意義を見失わないように、自己追求をし続けることを忘れないでほしいと思います。

中谷敦先生(40代 専属産業医)