(2010年3月掲載)
作家として、また森を再生する財団の理事長としてご活躍されるC.W.ニコルさん。そんなニコルさんは少年時代、どんなことに夢中だったのでしょう?

故郷ウェールズで暮らした少年時代、とにかく学校が大嫌いな子どもだったんです。でも唯一、すごく楽しみなことがありました。それは、生物学のピーター・ドライバー先生と一緒にいる時間でした。出会った頃、先生はまだ20代。若い先生でしたが、教えるのが学校で一番上手で、おもしろい話をたくさん聞かせてくれました。その頃、僕はとにかく北極が大好きで、北極で暮らす生き物のことを調べつくしていた、いわば北極マニア(笑)。先生に北極の話をするうちに、「どんな場所なんだろう?」「動物たちはどうやって暮らしているんだろう?」と興味がわいて、実際に行ってみたくてたまらなくなっていたんです。
そしたら、ある日突然「北極へ行くことになったけど、アシスタントで一緒に行かないか?」と。先生の研究調査が認められ、ある大学からフィールド調査のための奨学金が出ることになったんです。その時、僕はまだ17才。未知の世界をのぞいてみたくて、親の反対を押し切り、いざ北極へ。そこで体験したのは、極寒の地で自然とともに生きるイヌイットとの暮らしでした。彼らと一緒に生活しながら、アザラシやケワタガモなど、北極で暮らすいろんな生き物を自分の目で観察し、毎日記録していました。そんな10代が、僕のフィールドワーカー人生の始まりでしたね。
好奇心旺盛な青年時代に取り組んだ北極フィールド調査を終え、ニコルさんが次に向かったのは、なんとエチオピア!

僕は少年時代から柔道クラブに入っていて、体力には自信があったんです。するとある日、知り合いの大学の先生の推薦で、“腕力が強い・寒さに強い・フィールドワークの経験がある”といった雇用条件を満たしたポストとして、エチオピアに新しく建設されたシミエン山岳国立公園の公園長を任されました。日々の仕事は、自然保護。といってもただ見守ればいいのではない。密猟者が多く、非常に治安が悪い中、パトロールするのに一周10日間かかる公園を、小銃を片手に20人の部下と交代で周りました。まさに命をかけて自然を守る闘いでしたが、エチオピアで革命が勃発し、国全体が混乱状態に。日本人の妻と子ども3人の家族を守るため、無念の思いでエチオピアを後にし、日本に来ました。
日本は、当時のエチオピアと比べるとはるかに安全で、何でもできる自由な国のように思えました。そこで出会ったのが、谷川雁(がん)さん。雁さんは、1970年代当時まだ少なかった民間英語学校の専務でした。雁さんの応援を受け、子ども向け英語教材を作るアルバイトを続けて生活しながら、日本の大学で水産学を学んでいました。
以前、北極でイヌイットと暮らしていたときも、海洋ほ乳類の調査をしていましたが、1975年の沖縄海洋博での仕事を機に、捕鯨をテーマにした歴史小説を書こうと決意。古式捕鯨発祥の地である和歌山県太地(たいじ)で1年間取材を続けたのち、小説「勇魚(いさな)」を書き上げました。
歴史小説「勇魚(いさな)」を執筆されたニコルさん。次に待つのは、楽しみにしていた日本の田舎暮らし。しかし、引っ越した長野の山を歩いてみると・・・?

捕鯨の取材を終えて太地から戻り、さて、どこに住もうかと。そこで、雁さんが当時住んでいた長野の黒姫に、僕も引っ越すことにしました。黒姫は、長野と新潟の県境に位置し、信越の山々に囲まれた静かな高原地。大好きな日本の自然とともに生活できると思うと楽しみでした。
早速、近所の山を歩いてみると・・・、驚きました。森が悲鳴をあげていたんです。その当時、1980年はバブル経済が始まった頃。日本の森では、樹齢何百年という大木がいとも簡単に伐採され、何もなくなった山は荒れ果てたまま完全に放置されていました。僕は日本の田舎は美しい姿のままだろうと思って引っ越してきましたが、黒姫も同じでした。ですから最初の数年間は本当にショックでしたね。大好きな日本の自然、日本の森はもうだめかもしれないと思い、ものすごく落ち込んでいました。