本文へジャンプ

Open Middleware Report Web

Hitachi

数理的発想法5 電子書籍の作家が心ひそかに抱く、「ラボ」への大志 文:仲俣暁生

自前の「ラボ」がほしい

数理的発想法

 自己出版バージョンの『Gene Mapper』(のちに紙の書籍として発表されたfull build版と区別するため、現在はcore 版と呼ばれている。以下、その表記に従う)は2012年の5月に脱稿され、同年7月にリリースされた。それから一年にも満たない間に、full build版が早川書房から「ハヤカワ文庫JA」の一巻として刊行され、藤井さんは専業作家へと転身することになる。

 core版とfull build版の関係についても聞いてみた。

 「2012年の5月にcore版の電子出版の準備をはじめたときに、もし出版社からオファーがきたら、紙の本のために書き直しをやらせてくれるところ、出版社の商品として成立するものを一緒に作っていけるところとやろう、と決めていた。もちろん当時は、それだけの注目を集められるかどうか、まったくわからなかったんですが。

 full build 版をつくるにあたっては、完全に改稿しました。もとの原稿をいったんバラバラに砕いて再構成していく際に、元の骨格がなんとなく見えてくる。それをfull build 版の設定にもとづくドラマのなかにあてはめていきました。core 版はよくも悪くも、ITにかなり親しんでいる読者が対象だったから、想定読者が体験しているであろうことは、基本的にまったく書いていないんです。その意味では〈開いた〉読み物だった。一方、full build 版ではそれを伝統的な書物として、しっかり〈閉じていく〉という書き方をしました。それは技術的にもやれたと思っているし、core版にくらべると思想的な毒は少し弱まってますが、このストーリーのなかでできることはやったと思っています」

 この話を聞いて、『Gene Mapper』の2つのバージョンは、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』におけるマンガ版と劇場映画版の関係に似ていると思った。エンディングは異なれど、どちらか一方だけが正しいわけでもなく、1つの「核」から、さまざまなバージョンの物語が生まれてくる。そのこと自体が、さまざまな〈二重性〉をテーマとする『Gene Mapper』が伝えたいメッセージそのものなのではないか。1つの物語の構造から、いくつものバージョンが生まれてくるのが面白いと思い、他のバージョンが生まれる可能性についても聞いてみた。

 「『Gene Mapper』をジュブナイル(子供向け読み物)にしてみたいんです。full build 版はまだ、メディアや科学技術に対する不信感、あるいはオーガニックなどと言っている人たちへの不信感といったものに物語が依存している面がある。メディアの毒とか科学技術に対する偏見のない人、そうしたものへの偏見がある世界を知らない人に対して、〈2人の男の冒険物語〉として、このストーリーを伝えられるようになりたい」

 映画やマンガ、アニメのような他ジャンルへの展開も考えているのかを尋ねると、意外な答えが返ってきた。

 「マンガ版やアニメ版は、自分のプロデュースではやる気がないんです。それよりも、できることならラボ(研究所)を作りたい。技術と人間のかかわり方についてずっと考えていたいんです。技術といっても、科学技術や工業技術だけではありません。法律や税など、社会がもっているあらゆる技術システムをリサーチして考えていきたいんです。

 アメリカの作家でも、たとえばトム・クランシーなどは、自前のラボをもっているかどうかはわからないけれど、いろいろとリサーチ本を出している。私はそれのサイエンス版をやりたいんです。『Gene Mapper』は物語作品ではあるけれど、自分の根っこにある、リサーチャーとしての活動のアウトプットでもある。有名なMIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボは論文や製品やアーキテクツがアウトプットですが、私はリテラチャー(文学)のかたちでアウトプットできるラボがほしいんですよ」

 この「ラボ」の萌芽は、すでに『Gene Mapper』の公式サイトのなかにある。「現実化する世界」というコーナーだ。ここでは「神経フィードバック」「天然の蒸溜作物」「液晶を埋め込んだコンタクトレンズ」「バーチャルライト」といった、作品世界にかかわるテクノロジーの現実における進展度が藤井さんによってレポートされており、すぐれたリサーチャーとしての彼の一面が垣間見られる。

 次作の『オービタル・クラウド』は出版社からの刊行を模索しているそうだが、「個人出版はやめるつもりはない。実験的でチャレンジできる要素がありそうな作品は個人出版でやる」とのこと。藤井さんのいう「チャレンジ」は、たんに作品面での実験性だけではないだろう。あらたな作品を生み出すための研究と思考のための場としての「ラボ」を、たとえバーチャルであっても自前で抱えていくのだという、強い意思表示であるように思った。

藤井太洋
Fujii Taiyo
作家

1971年生まれ。作家、個人出版者。2012年に個人出版した『Gene Mapper』がBest of Kindle本 2012の文芸・小説部門でトップを獲得した。DTPの草創期より編集、印刷に関する業務に就き、また2013年春まではソフトハウスにてディレクターとして勤務していたため、出版にかかる従来工程やICT分野に関する知見も深い。2013年4月に早川書房より『Gene Mapper -full build-』が刊行され、作家として商業デビューを果たした。日本における個人出版のロールモデルとして、今後の活動が最も注目される作家、出版人の一人。

3ページ中3ページ