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数理的発想法5 電子書籍の作家が心ひそかに抱く、「ラボ」への大志 文:仲俣暁生

演劇とエンジニアリング

数理的発想法

 藤井さんは奄美大島の古仁屋という港町で生まれ、中学までそこで暮らした。小学六年のときにSHARPのX1というパソコンを買ってもらい、BASIC のプログラムを書き写したり、ゲームを楽しんだという。 高校時代は鹿児島本土にある「海軍式」の学校の寮で過ごした。ご本人いわく「文化断絶」の3年間だった。高校卒業後、東京に出て1年の浪人の後、国際基督教大学に進学。そこで「青年団」という劇団と出会ったことが、藤井さんの人生にとって大きな転機となる。

 「大学にはいってすぐに舞台頭の人に誘われて、青年団の舞台美術を手伝うようになったんです。その頃にMacintoshを買って、3Dの舞台パース(透視図)を書きはじめました。もともと青年団では、舞台の図面をCADで引くという文化があった。ただ舞台パースとなると、当時のコンピュータではライティングがちゃんとできなかったので、まだ使えないな、という感じでした」

 青年団は平田オリザが主催する、「現代口語演劇」を代表する劇団だ。演劇の舞台に日常的な会話やしぐさをもちこんだ平田の理論は、1990年代以後の日本の現代演劇に大きな影響を与えている。青年団は2012年にチェーホフの『三人姉妹』を上演するにあたり、舞台を「かつては家電メーカーの生産拠点があり、大規模なロボット工場があった日本の地方都市」に移し、大阪大学の石黒浩博士によるロボットとアンドロイドと人間の俳優に、三人姉妹を「共演」させ話題になった。

 藤井さんの小説の書き方に、青年団での体験はどんな影響を与えたのだろう。

 「私がいままででいちばん目にした戯曲は、平田さんが書いた、舞台で使うための生の戯曲なんです。青年団の脚本は、他の劇団にくらべると圧倒的にセリフが短い。日常的な会話をするさいの、あー、とか、うん、といった短い言葉をたくさん積み上げることで、役者の心の動きを観客にわからせる会話劇なんです。長ゼリ(台詞)は基本的にありませんし、舞台上で役者が自分語りをすることもない。それどころか、観客に背中を向けてしまうこともある(笑)。1つ1つの台詞には、思いも何も込められていないけれど、計算されたリズムとタイミングによって生まれた時間のなかで物語が立ち上がっていく。

『Gene Mapper』のcore 版は私が生まれて初めて書いた小説なので、作中の会話は平田さんの戯曲の影響下にあると思います」

 演劇の舞台美術の経験があることと、当時から3Dによる舞台パースの制作にトライしていたことは、『Gene Mapper』の作品にも生かされている気がする。たとえば物語の冒頭ちかくで、遺伝子工学によって「設計」された「蒸溜作物(Distilled Crop)」のデザイナーである主人公の林田に対し、もう1人の主要な登場人物である〈黒川さん〉が、AR(拡張現実)カフェで、蒸溜作物の発色について手際よく説明する場面がある。〈黒川さん〉による、グリーンとオレンジのメッセージ物質の散布にともなう「発色」パターンの説明は、この小説のなかで最も印象な場面の1つだが、ここには演劇舞台のライティングのイメージが投影されているのではないか。バーチャルな「世界」の土台を支えるという意味でも、演劇の舞台美術の仕事は、現実社会における技術者によく似ている。

 「蒸溜作物」のデザイナーが行うのは、たんなるグラフィックデザインではない。情報アーキテクチャを「設計」するという意味での「デザイン」である。作中に描かれる近未来の時代では、遺伝子工学が現在におけるIT技術のように広く産業化されており、社会に大きな影響力をもっている。その仕事に従事する技術者たちの思考法や行動パターンは、現代のIT技術者にきわめてよく似たものとして描かれる。

 藤井さんの小説に私が惹かれた最大の理由は、「デザイナー」である林田をはじめ、技術というものがもつ「力」と「危険性」をともに知る、エンジニアと呼ばれる人たちの思考法と倫理が描かれていたことだった。遺伝子工学に対する林田や〈黒川さん〉のスタンスは、作者である藤井さん自身のものと考えていい。好むと好まざるとにかかわらず、現代社会はさまざまな技術に支えられている。にもかかわらず、そうした技術を支える人々の姿は、社会的にはインビジブル(不可視)である。科学技術万能時代のなかで、むしろ、エンジニアの存在自体がブラックボックスに入れられているのだ。『Gene Mapper』という作品はそこにナイフを刺し入れ、切り開いてくれた。