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数理的発想法5 電子書籍の作家が心ひそかに抱く、「ラボ」への大志 文:仲俣暁生

いつの時代も、創造性の核には個人の「発想」があった。
「発想」をかたちにするには技術のたすけが必要だが、情報通信技術の発展は、そのプロセスを大きく変えた。
「発想」にはじめから、技術がビルトインされるようになったのだ。
そうした発想のあり方を、かりに「数理的発想法」と名づけてみた。

連載第五回目にご登場いただくのは、遺伝子工学を題材にした『Gene Mapper』というSF小説の作者である藤井太洋さん。
通勤途中にiPhoneで執筆し、電子書籍で自己出版したこの作品は、1年も経たずに9000部以上ダウンロードされ、大いに話題になった。
「電子書籍による出版」というプロセスにばかり光があたりがちだが、「小説」を書くという行為に、藤井さんはもっと大きな野心を抱いている。
今回のキーワードは〈リテラチャー〉と〈ラボ〉である――。

数理的発想法

 遺伝子工学と拡張現実が発達し、いまのインターネットが崩壊してあらたなコンピュータ・ネットワーク、「トゥルーネット」が生まれている2037年という近未来を舞台にしたSF作品が話題を集めている。

 『Gene Mapper』というその作品は、2012年7月にインターネット上での自己出版による電子書籍として発表された。作者自身が専用サイトを立ち上げて巧みなプロモーションを行ったこともあって、作品の魅力に惹かれた人たちの間で口コミで広がり、ネットメディアでの紹介も相次いだ。

 発売開始から1年を待たずして、9000ダウンロードを超えた。著名作家の電子書籍でも100部単位でしか売れないこともある電子書籍市場の開拓期にあって、無名の新人作家の自己出版作品が1万部に手が届こうとするのは、快挙といっていい。

 作者の名は藤井太洋さん。現在はフリーとなり作家業に専念しているが、『Gene Mapper』発表時はソフトウェア会社で製品のプロモーションをする仕事をしていた。小説を書くのは初めての経験で、仕事の行き帰りにiPhone で書いたという逸話はファンの間ではよく知られている。

 『Gene Mapper』の発表後まもなく、出版社から紙の書籍化のオファーがなされ、2013年春に徹底改稿された『Gene Mapper full build』(ハヤカワ文庫JA)も発売された。この間に短編2作(「UNDER GROUND MARKET」「コラボレーション」)も文芸誌とSF専門誌でそれぞれ発表している。発表から1年足らずでの作家デビューという、絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーである。

 じつは藤井太洋さんとは、電子書籍関係者の集まりなどで、すでに何度も顔をあわせていた。しかしそこではAmazonや楽天Koboなど新たに登場した電子書籍プラットフォームを利用した自己出版(セルフパブリッシング)の話題が中心で、作品世界の成り立ちや小説執筆に賭けた思いなど、「作家」としてのお考えを深くうかがう機会がなかった。

 専業作家として独立されたいま、あらためてそのあたりを聞いてみたいと思った。

小説を書き始めた理由

数理的発想法

 この連載でこれまでに話をうかがった方の多くと同様、東日本大震災の体験が、藤井太洋さんの場合も大きな意味をもっていた。生まれて初めて小説を書き始めた動機を、藤井さんはこう語る。

 「震災と福島第一原発の事故に関する報道に、憤りを感じたんですよ。震災から1ヶ月たっても2ヶ月たっても、そこで実際に起きていることがわからない。それどころか、計測された数値がどういう意味をもつのかということすら、いつまでも報道されずにいる。そのかたわらで、何ミリシーベルトだから、何ベクレルだから危険だという無責任な話が飛び交い、挙げ句の果てには、専門家はみんな御用学者というレッテルを貼られてしまった。

 私自身も震災後にまったく違う生活がはじまったことを実感し、マインドが大きく変わってしまいました。そんな頃に、サイエンスカフェというところが主催している科学セミナーに参加したんです。放射能に関心をもつ母親などを対象にした初心者向けセミナーにもかかわらず、そこで聞いた専門家の言葉はすごく強かった。たとえば、実際に霧箱を用いて飛ぶβ線を見せてくれる。はい、いまβ線が1個でました。これが1キログラムから1秒間に1個でるとの報道がされている"1ベクレル"ですよ、と。そういう具体的な説明がものすごくわかりやすかったんです」

 科学者をはじめとする科学の専門家の知識を一般の人向けにわかりやすく伝える分野を、「ポピュラー・サイエンス」という。アメリカではこの分野の媒体や書き手が豊富で、ベストセラーとなる本もたくさん出ている。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)などは皆さんもご存じだろう。逆に日本では科学雑誌は売れず、全体にポピュラー・サイエンスの土台が極めて弱い。震災後に明らかになったことは、その弊害だった。

 原発に象徴される科学技術全般に対する懐疑論や、専門家や大手メディアに対する不信が震災後に一気に吹き出したのも、科学や技術に対する知識の土台が、社会的に共有されていないためだろう。そうしたなかで、何を信じてよいのかわからなくなり無力感を感じた人々は、極端なアンチ科学主義、アンチ技術主義に走りやすい。

 だが藤井さんの「憤り」は、メディアや報道への批判ではなく、創作意欲へと向かった。なぜ、ノンフィクションでもジャーナリズムでもなく、「小説」を書こうと思ったのだろう。

 「事実を語るプロフェッショナルの発言は、それだけで力がある。それに匹敵することを自分ができるとしたら、と考えて、私はフィクションでやろうと思った。しかも一人きりでやれるフィクションのかたちとして、小説を選んだんです。

 震災から約半年たった2011年の夏ぐらいから、短い作品をいくつか書き始めていました。最初に書こうとしたのは、インターネットが崩壊し、その20年後ぐらいに潰れたインターネットのなかで何か変なことが起こっているという、ちょっとしたスリラー。でもこれは話のサイズが大きくなりすぎたのと、当時は小説を書くメソッドがわかっていなかったので、すぐに行き詰まってしまった。

 そこで舞台設定だけは同じにして、同じ世界で起こる別の話をどんどん作っていったんです。〈崩壊したインターネット〉と〈トゥルーネット〉との二重世界というオリジナルのアイデアからすると、『Gene Mapper』はいちばん外側にある話で、いちばん最後に書き始めた下書きでした。『Gene Mapper』は科学と人間の関係をものすごく極端な状態にして描いた「シチュエーション・ドラマ」なので、サイエンス・フィクションというスタイルがふさわしいと思い、その形式で書きました。ただしAR(拡張現実)にかんする細かな設定は、はじめはとくに考えていなかった。主人公の林田から遺伝子解析の依頼を受けるキタムラという登場人物が、〈犬のアバター〉をまとって出てくる場面を書き始めたとき、ARが現実の世界と重なっているという、もうひとつの二重性を思いついて、これで行こうと思ったんです」

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