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数理的発想法3 数学をめぐる〈対話〉を「物語」にする 結城浩 文:仲俣暁生

数学への情熱

数学ガール

 『数学ガール』は、少年少女の相互教育の物語であり、それを通じた彼らの「成長物語」でもある。

 登場人物のうち、もっとも高度な知識をもつのはミルカさん。彼女は主人公の「僕」を挑発し、彼の好奇心と向学心をつねに刺激する。「僕」はミルカさんに負けぬ数学好きだが、ときに自分を見失い、思春期にありがちな心の迷路に入り込む。そんな「僕」の最大の特技は「わかりやすく教えること」。テトラちゃんは「僕」のその能力により、登れるとも思っていなかった数学の高い山に、一歩ずつ踏み込んでいく。そして彼と彼女らを、村木先生という「大人」がひそかに見守っている。

 「私の本の中で登場人物が対話を行うのは、本質的な要素かもしれないな、と最近思うようになりました」

 と結城さんはいう。プラトンやソクラテスまでさかのぼるまでもなく、「対話」は西洋哲学の歴史に深く根ざした理解のための方法である。同時に、それぞれに個性の異なる少女たちと、主人公の「僕」との対話によって物語が進むライトノベル風の展開は、日本の若い読者が好むエンタテインメントの形式でもある。『数学ガール』はいわば、その稀有な結合といってもいい。

 「対話が本の登場人物同士で行われると、その対話を聞きながら、読者も心で加わることができるんですよ。生徒役の登場人物が疑問をもったところで読者も疑問に思い、先生役が答えてくれたときには、読者も深い納得を得られる。

 プログラミング言語の入門書を書いていた頃から「本を読んでいる最中に私(結城)が隣にすわっていて、話しかけられているみたいです」という反応を読者からメールや感想でよくいただいたんです。

 作者がそばにいて、一つひとつ噛み砕くように丁寧な言葉で、教えてあげることで、読者もまた、「なるほど、そういうことだったのか!」という気づきを積み重ねていける。そういうつくりは、はじめに書いたプログラミングの本から『数学ガール』まで全然変わってないと思います。

 変わったのは、本でどこまで冒険していいかという点で、だんだん冒険の度合いが大きくなってきていますね。Java の入門書を書いたときに、各章のはじめと終わりに、先生と生徒の会話をつけてみたんです。そこを読んでクスッと笑うだけでもいいけれど、各章のイントロダクション的な役割ももたせたかった。その後のプログラミングの本にはだいたい、そういう対話が各章の冒頭についているんですが、その対話の部分が本文にまで入り込んだのが、『数学ガール』なんです」

 第一巻の結びには「我らの師、レオンハルト・オイラー先生に本書を捧げます」との言葉がある。『数学ガール』が刊行されたこの年は、オイラーの生誕300周年にあたっていた。第二巻以降でも、表題となった理論を生み出した数学史上の先人への敬意の表明を忘れない

 自分は数学の専門家ではない、といいながらそれまで淡々と話をしてくれた結城さんが、急に熱っぽく語りはじめたのが、ガロアの話だった。

 「第五巻の「ガロア理論」を見出したガロアは数学の天才だったのに、二十歳で決闘で死んでしまう。物語の題材として、それは非常においしいのかもしれない。でも、私はそれを利用するのが嫌なんです。ガロアのことを後世に書く人が、彼が死んだ原因となった女性のことばかりにこだわり、ガロアが残そうとした数学の内容にフォーカスをあてないのはもったいないことだと思います。

イラスト

 彼が決闘の前夜に編集していた論文の中身に、もっと注目すべきじゃないか。明日は自分が死ぬ日かもしれないことを知りつつ、二十歳の男の子が、数学の論文を手直ししていた。ガロアはそれが自分の生きた証になることを知っていて、命がけで書いたんです。だから私の話では、決闘の話はチラッとしか出てきません。逆に、彼が決闘の前日になおしていた論文に、第十章をまるごと割り当てた。

 それこそが二十歳で亡くなった青年ガロアへの手向けになるからです。数学は、自分が明日死ぬかもしれないときでも時間を費やすだけの価値がある学問なんだ、という彼の思いや熱意は、同じ年代である読者の心を動かすに違いないと思ったんです」

 ここに付け足すべき言葉は、なに一つないだろう。『数学ガール』の登場人物たちは皆、このときのガロアと同じく、小さな「数学者」である。それは「数学の専門家」という意味ではなく、数学というかたちで一般化された知的な問いに対して、「自分の頭で納得のいくまで考える」「考えつくした結果を、他人が正確に理解できるように伝える」ことへの情熱をもつ人たちのことだ。

 『数学ガール』の登場人物は、すべて私の分身だ、と結城さんはいう。彼自身のなかにも、この情熱がいまもたぎっていることはまちがいない。

結城 浩 Yuki Hiroshi 作家/プログラマ

1963年生まれ。1993年からプログラミングや技術書の執筆を行い、いずれもロングセラーとなる。2007年から女子高校生が数学に挑む数学青春物語『数学ガール』シリーズ(ソフトバンククリエイティブ)を刊行。英語・中国語・韓国語などに翻訳され、コミック版も出版。若者に人気のシリーズとなる。現在Web で『数学ガールの秘密ノート』を連載中。著書に『Java 言語プログラミングレッスン』、『Java 言語で学ぶデザインパターン入門』、『暗号技術入門』、『プログラマの数学』(以上すべてソフトバンククリエイティブ)など多数。ネットでの活動も活発で、結城浩の日記や、Twitter のツイート、メルマガも人気。妻と二人の息子と共に暮らすプロテスタントのクリスチャン。

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