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 家につく蜘蛛を殺すものではないといい、蛇を打つものではないとされる。様々な悪さをする虫たちから家を守ってくれているからだという。あるいはそちらが本来の家の主だからだと。

 子供の頃に誰もが見たことのあるはずである。母親が夜っぴてめくり続ける表計算ソフトのシートの影に、父親が汗を流して積み上げ続けるベクタードローイングソフトウェアのレイヤの間に、上の兄弟姉妹が並べ続ける音符の脇で、小さな虫たちが姿を晒し、慌てふためきまた潜り込んでいく様を。その虫を付箋でつぶしてみたことが、カーソルの先でつついたことが、倍率を上げ、画素の間に顔を出すのを確認したことがあるはずである。巣の中にリセット信号を流し込んだことだってあるかも知れない。

 物心つき、ものの道理を知らされるにつれ虫たちは徐々に姿を消して、ひどい睡眠不足の間、酔っ払った頭の中や、起き抜けの霧の中へと退いていく。かつて虫だったはずのものたちは、今や確固とした形をもった昆虫となる。図鑑にだって載っており、名前や棲息地域を調べることもできるのである。

 あなたは、自分が昔見ていた虫の正体は、昆虫だったのだなあと思うのである。

 ものの道理を知るにつれ、あるいは歳を重ねるうちに、あなたは不意に気づくのである。夏の終わりに、ひっくり返った蝉の死体を運んでいるのが、全然蟻の群れなんかではなかったことに。きちんと脚を畳んだ蝉の死体を担いでいるのは、蜻蛉の胴を運んでいるのが、子供の頃に見た小さな影の集まりで、あなたの視線に迷惑そうに微かに肩をすくめるだけであることに。肩口に触れた雪の結晶が、白い小さな虫であり樹状の腕を挨拶がわりに持ち上げるのを。氷の解け揺れる水面が、もう水面などではないことを。

 あなたは自分の腕に触れ、その輪郭は溶けていく。あるいは溶けていくと頭が感じる。家につく蜘蛛や蛇たちが、あなたの頭から零れる思考を食べにやってくる。遠巻きにあなたの実行が終了するのを待ち構えている。

 あなたの姿が完全に消え去るのを待たず、家の姿もまた薄らいでいく。家を解体し終えた主たちは、叢へ、苔むした石垣の間へ消えていく。叢が消え、石垣の隙間が残る。

 ついと小さな腕が伸び、指が隙間から飛び出す尻尾を捕える。指先が尻尾を捕まえてから、小さな腕が伸びていく。 隙間から徐々に尻尾が引き出され、虚空から腕の付け根が姿を現す。

 「お母さん」

 暴れ回る蜥蜴を摘まんだ子供が、振り返り叫ぶ。そのまま母親へ向け、蜥蜴を放る。青一色の空を背景にして、レイヤに大きな弧が描かれる。

 あなたは父親の腕の中からマウスを奪い、その蜥蜴をなんとか受け止めようと、必死にマウスを振り回している。